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その6 聖研:「塀の中の懲りない弟子たち」(注)の学びから得た点・・・
この学びに登場する弟子たちは、主の御業をなすという目的のために、反感やねたみを身内・権力者に抱かれ、鞭打ち、牢獄、そして解放される。それにより、彼らは神への信仰を強めていったというような印象をもった。
もちろん、弟子側で考えると、自分の利益を得るための牢獄入りではないし、また迫害も受けるわけだから、解放されるまでには恐怖感がないとは思えない。
が、日本国内でも話題になっている、目的こそ異なるが、北朝鮮に拉致された方々の家族関係者の団結力も、これと同じことのようにも思える。
ただ今回の学びでは登場しなかったが、迫害のために命を失った洗礼者ヨハネや、ステパノのような殉教者に対しても学びたかった。目的が「主の御業のために」との一致性から考えれば、殉教も同一ではなかろうか。
弟子たちへの迫害は、イエス・キリストの十字架での受難を通して示されたように、迫害・殉教のままでは終わっていない。かえって"宣教"は広まり、主の御業の偉大さを示すことになる。
今回のテーマは弟子側で学んだが、捕らえた側の視点で考えると、なぜ捕らえて、すぐ処刑できなかったのか。見せしめのため、苦痛を味わせてからなのか…? それとも、恐れか…?
この時間的なズレが、結果的に"主の栄光を現わす"ということに用いられてしまったようにも思える。
(注):これは、去る2002年12月〜1月の「聖書研究会」に参加された方のご感想です。
「塀の中の懲りない弟子たち〜6回シリーズ」:
<弟子たちは迫害を受ける。しかし牢獄に入れられるような体験をしても、決して挫けるようなことはない。それはどのような心理からなのか。迫害に対する、また苦難時に対する術(すべ)を聖書から学ぶ。>
1. ヨセフ(創世記39:1〜23)
2. エレミヤ(エレミヤ記32:1〜5、37:1〜21)
3. 使徒たち(使徒言行録5:17〜42)
4. サムソン(士師記16:1〜31)
5. ペトロ(使徒言行録12:1〜19)
6. パウロ(使徒言行録16:16〜40)

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