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その19 主日の黙想 No.12
『敬うということ』
「『父と母を敬いなさい。』これは約束を伴う最初の掟です。」
エフェソ六章二節
・・・いま、家族のなかに見出せるのは、「自分」と、自分以外の「異物」と
いう視点だけです。親子のあいだ、兄弟間、夫婦間に共通の思いがない。家族と
呼ばれるだけで十分ではないか、自分と年齢も価値観も一切が異なる人間とのあ
いだに、わざわざ共通の思いをもとうなどと無理することはない、と各々が言い
訳するようになっていないでしょうか。「異物」だから関係がない。が、ときに
邪魔になる。不愉快だ、目障りだ。だから、なきものとしたい。そういう思いが
高じたとき殺人も起こりうる。目の前をちらちらと飛び回る蛾を目障りだと叩き
つぶすように、人をあっさりあやめてしまう。自分の気分と居心地だけを優先さ
せる、きわめて自己中心的な未熟な人間がなんと多いことでしょう。
家族が単に「異物」の寄せ集めであっていいはずがありません。互いのちがい
を尊重しつつ、共通の思いをもう一度探るべきときです。家族間のコミュニケー
ションを回復することなくして、世の中にぬくもりは回復しえない、とさえ思い
ます。
手っとり早い解決法などありません。日々コツコツと積み重ねてゆく、そんな
地道さを必要とするでしょう。その習慣のなかで、自分以外の「他者」に心を寄
せる感性が育つのだと思います。他人の喜びや痛みに共感できる心の幅という
か、度量が広がるのだろうと思います。
面倒だからと、人とのかかわりあいの一切から遠ざかっているかぎり、人とし
ての成長は期待できません。もちろん人とのふれあいのなかで心揺さぶられる感
動を味わうこともできません。それは、一度きりの人生において、きわめて重大
な損失であるだろうと私は思います。(日野原重明著「生きかた上手」より)
今週も日野原先生の言葉から。「家族間のコミュニケーションを回復するこ
となくして、世の中にぬくもりは回復しえない・・・・」、長年、たくさんの人
生の危機にある人たちとしんけんに向き合ってこられた先生は、憂慮しながらそ
う言い切ります。そしてこのみ言葉、「『父と母を敬いなさい。』これは約束を
伴う最初の掟です」、この聖書の言葉が意味していることは、まさにそれです。
敬うとは、「互いのちがいを尊重しつつ、共通の思いをもつ」こと。つまり、
「父と母を敬いなさい」とは、一方的に権威を押しつけて、ふんぞり返っている
ようなことではない。「コミュニケーション」から生まれる関係です。
コミュニケーションの語源はラテン語で、「共同する」、「共有する」ことか
らきています。「共有するために分かち合うこと」。つまり、一方通行ではな
く、親は子へ、子は親へと「共通の思い」を「共有するために分かち合うこ
と」。たとえ家族であっても、一人ひとり互いに違う存在であることが出発点な
のです。そう、親子だから、夫婦だから、あるいは姉妹兄弟だから同じ思い、一
つ思いがあるというのは幻想、甘えるなっ!ということ。「日々コツコツと積み
重ねてゆく、そんな地道さを必要と」し、「その習慣のなかで、自分以外の『他
者』に心を寄せる感性が育つ」「他人の喜びや痛みに共感できる心の幅という
か、度量が広がる」、それが家族!
そして、それがそのまま教会のあり方。「互いのちがいを尊重しつつ、共通の
思いをもつ」こと、そのような努力を積み重ねる力が、礼拝を通してわたしたち
に与えられるのです。互いに大切なわたし、あなたであるために。
大和 淳牧師

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