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その20 主日の黙想 No.14
『真の自分らしさ』
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」マタイ六章二五節
今、人々がそうありたいと思う生き方、それは自分らしくありたい、そういう願いでしょう。自分に正直に生きる、生きたいということ。それは、それだけわたしたちが大なり小なり自分というものを押し殺して生きなければならない、そういう中で生きているからだと思います。本屋さんに行くと、「自己実現」などという言葉が目につきます。あるがままに生きたい、そうありたいということですね。
それで、この自分らしくというのは、価値観は人それぞれ、多種多様あっていいのだ、みんな同じでなくていい、そういう個人主義的考え方が時代の精神みたいになってきている、一方ではそういうことでしょう。しかし、そういう個人主義、自分主義は、現実には政治とか、あるいは学校教育、あるいは企業の中で、そして大多数の家庭、家というものの中には、本当には根づいていないわけです。でも、確かにこの「自分らしく」ということは人間形成の基盤なのです。
乳幼児期に、しっかりとその子の個性を認め受け入れていく。能力だけで、出来るか出来ないかで、その子の判断を決してしない、してはいけない、そういう環境が大切なんだと言われます。そして、それとは反対、人生の終わりのとき、それをいかに迎えるか、そういうところで、死を迎えるにあたって、本当に必要とされているのは、やはり、この一人ひとりが、その人らしく生を終える、そのことに向かっていく。死に備えるというとき、私たちが誰でも等しく直面するのは、如何にこのわたしがわたしらしく死んでいくということなわけです。
つまり、人生の最初と最後に、この自分らしく、ということが真実、切実に問われていく、また、そのことを本当に尊重する、そういう環境が人間らしさということでしょう。しかし、そういうこの自分らしく、ということ、それが求められているのは、決して人生のはじめと終わりだけの問題ではないということは言うまでもないことです。ところが、その人生の中間では、この自分らしくということが生きにくい、無くなってしまう、生活の問題、人間関係とかに振り回されて、どこかに置き忘れてしまう。年を取るほど、まさにそうなっていく。
どうして、そうなのか?まあ、社会という現実がそうなんだからという風に、わたしたちは周囲、環境の性にしてしまうわけですけれども、結局、その自分というもの、自分らしくとか、あるいは自分に正直に、という、その自分というもの、その根っこにある自分が一体どうなのか、何なのか、肝心なそこが曖昧模糊としている、その限り、どうしたって世間に流されていくような具合になる。
それでその本当の自分、その自分らしくの自分、それは一体、誰が見ての自分らしさなのか、ということなのです。と言うのは、人生の最初と最後、そこで実にはっきりしていることがあります。そこで赤裸になってくること、それは、そこで人はひとりで生きられないということです。自分らしくある、それは、私が、私を見て、ああ、これは自分らしいとか、自分らしくないとか、まあ、たいていは、そんな風に考えるしかないのかも知れません。けれど、その限り、そこには本当の安心というものはないわけです。実際、自分くらい当てにならないものはない、その当てにならない自分が、自分に、自分らしいと言ったって、気休めでしかない。そういう意味では、実は、自分以外のほかの人、他者によって、自分が自分らしいね、と認められる、その時はじめて自分が自分らしいんだと、喜べ得るのではないでしょうか。それで、子どものころのことを思い出してみると、どんな風に誉められて嬉しかったかと言えば、忘れられないのは、ああ、とっても君らしいね、そう言われることでした。逆に、そんなことをするなんて君らしくない、そう言われるのが、大変つらい、悲しかったです。
失敗もする、思うに任せない、そういうことの人生の繰り返しの中で、どんなことがあっても、自分を信頼して見てくれている人がいる、ということ。あるいは誰もが振り返ってくれない、そういう中でも、思いがけず、自分を見ていてくれる人がいたことを発見したとき、どんなに勇気づけられることでしょうか。
そういう意味では、先に言った人生の始まり、そしてその最後の時にどうしても必要なこと、そこで人間は他者がいて、本当に自分らしくあれる、そこに尽きるのではないか。たとえ、どんな始まりであろうと、どんな終わりであろうと、わたしを〈わたし〉と見ていてくれる人がいる、それがかけがえのないことなのです。
つまり、人生の真ん中で、私たちが見失うのは、この共なる他者、その他者がすっぽり抜け落ちて、この自分の人生は、頭の先からかかとまで、すっかり自分のものだと、自分で、自分一人で自分らしくあろうとしてしまうのです。
しかし、キリストは呼びかけています。 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」あなたはひとりで自分らしくあることはできない。しかし、天の父は、ありのままのあなたを愛してくださっていると!
大和 淳牧師

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