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その23 主日の黙想 No.17
   『主如意!』

「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」ルカ二四章三一節

 先日、渋谷の東急ハンズに行ったときのこと、その日、色々便利な工具がセールで並べられていました。わたしも面白そうなので眺めていたら、ある工具をいかにも気に入ったように手にとって見ていたおじいさんが、しかし、値段をみて、ポツンとこう言って立ち去っていったのです。「フニョーイ!」。
  この一言が何となくおかしくて、最初はおどけたただの擬態語くらいにしか思わなかったのですが、しばらくしてハッと分かりました。「フニョーイ」ではなく「フニョイ」、不如意のことだ、と。不如意、広辞苑を引くと、「@思いのままにならないこと。どちりなきりしたん『継父(ままちち)にあひていかほどの――をかしのぐべき』A生計の困難なこと。金の工面がつかないこと。貧乏。醒睡笑『手前――なれば、孝養のいとなみも調へがたし』。『手元――』」とあります。そのフニョイおじいさん、一言、つまり、「金がないぞ、ままならない」と言い残して去って行った、なかなかしゃれた方だったのだ、と。お見事!
  思えば、不如意、(自分の)意の如くならず、ということ、まことに人間生きていれば、自分の思いどおりにならないことがいつもある。「フニョイ」、そんなときは、ジッと耐えるか、あるいは自分の努力で何とかするか、それしか方法はないでしょう。けれども、人はしばしば、自分の思いどおりにならない、その不如意のとき、文句を言い、怒りはじめます。こんなはずではなかった、どうしてこうなるのか、と。苦痛の中にある時、われを忘れて夢中になっている時、あるいは何かに気をとられている時、自分の周り、あるいは他者もフッとみえなくなり、自分中心・自分だけの世界を作ってしまうのです。そうして「アァ、もう駄目だ」と悲鳴をあげて、ヤケを起こしたり、すねたり、子どもならグレたり、イジメに走る、大人も子どもも暴力的になり、そして自殺してしまったりもしてしまう・・・。
  それで、そういうことは信仰があればないはずだ、そうよく言われます。そう言われると、言葉もありません。でも「いつまでもあると思うな、親と金」ならぬ、「いつまでもあると思うな、信仰とカネ」です。第一、信仰があれば何とかなるというだけなら、それは神さま、何とかしてくれ!という「甘え」と変わりません。甘えとは「他者に自分を無限定的に許容し、理解してもらおうとする、過剰な期待」だそうです。
  あのおじいさんは「フニョーイ!」、そうおまじないのごとく言葉にすることによって、惑わされ、弱った自分をしっかり取り戻されたのかも知れません。そうであれば、人生の達人かも知れません。
  そうです、信仰とは人生の達人となること、その極意は、まず「フニョーイ!」な現実、その中で自分自身を失わないこと。そうなってしまうと、また状況を、他人を理解し、受け入れる力もなくなるからです。「フニョーイ!」は、決して諦めることではなく、むしろ限りなく自分自身をいたわるためのかけ声でしょう。ガンバレ、ジブン!ということ。クソッタレ!マケテタマルカ!

  主イエスの復活の朝、エマオへの途上で、嘆きながら歩いてゆく二人の弟子たちは、共に語りかけて歩んでいたイエスに気がつきませんでした。見ていてもその人をみていない、みえていなかったのです。
  主イエスは、その彼らの眼を開きます。しかし、ここで聖書は真に不可思議なことを言います、「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」しかし、そうして彼らは「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と、自分自身を取り戻し、その自分の道に帰っていくのです。これこそ、まさに主イエスの「不如意」!
  そうです、「イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」、主イエスはフニョイ!でもその中でもわたしの歩む道はあったし、これからも決してなくなることはない、主は共にいた、いるのです。つまり、主イエスの「不如意」は、わたしたちにとって「シュニョイ!」、つまり、主如意、主の意のごとく、ということ。困ったら、行き詰まったら、まず唱えましょう、主如意!と。

大和 淳牧師

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