2000年8月6日(聖霊降臨後第8主日) 聖書日課と説教

第1日課   エゼキエル書
21-7a
 
 
彼はわたしに言われた、「人の子よ、立ちあがれ、わたしはあなたに語ろう」。そして彼がわたしに語られた時、霊がわたしのうちに入り、わたしを立ちあがらせた。そして彼のわたしに語られるのを聞いた。彼はわたしに言われた、「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの民、すなわちわたしにそむいた反逆の民につかわす。彼らもその先祖も、わたしにそむいて今日に及んでいる。彼らは厚顔で強情な者たちである。わたしはあなたを彼らにつかわす。あなたは彼らに『主なる神はこう言われる』と言いなさい。彼らは聞いても、拒んでも、(彼らは反逆の家だから)彼らの中に預言者がいたことを知るだろう。人の子よ、彼らを恐れてはならない。たといあざみといばらがあなたと一緒にあっても、またあなたがさそりの中に住んでも、彼らの言葉を恐れてはならない。彼らの顔をはばかってはならない。彼らは反逆の家である。彼らが聞いても、拒んでも、あなたはただわたしの言葉を彼らに語らなければならない。

第2日課   パウロのコリント人への第二の手紙121-10

  わたしは誇らざるを得ないので、無益ではあろうが、主のまぼろしと啓示とについて語ろう。わたしはキリストにある一人の人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それがからだのままであったか、わたしは知らない。神がご存じである。この人が――それがからだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存じである――パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表せない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。わたしはこう言う人について誇ろう。しかし私自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱いときにこそ、わたしは強いからである。

福音書   マルコによる福音書  61-6a

   イエスはそこを去って、郷里に行かれたが、弟子たちも従って行った。そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹達も、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこでも敬われないことはないことはない」。そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。
*日本聖書協会口語訳聖書より

 

説教  「思い込んで自分をまごつかせていないでしょうか。」

マルコによる福音書6章1節から6節までのお言葉でございます。

今日はイェス様が自分の故郷ナザレに帰られたときのことです。イェス様はその町で育ったのですから、親類や知り合いや友達も結構いたのでしょう。イェス様のお話を皆が感心したのですね。「この人はどこでこのような知識を得たのでしょうか」と。

現代人でしたら、教会でお話をするためには永年勉強して、神学校を卒業して説教をするのが普通でしょうが、イェス様は勉強もせずに、いろんなことをご存知だったので、感心していたのです。でも、彼らの結論は彼はヨゼフという大工の子供で、そこで育った大工ではないかと、イェス様に慣れすぎている彼らは侮るもととなったのでした。慣れ過ぎれいるあまりに、年寄は「若い者が」と考えたり、一緒に遊んでいた友達も彼があまり立派な素晴らしいことを言うので、信じられなかったのです。わたしたちもそういう経験があります。特に大人になってクリスチャンになった人に対してそう感じるときもあるでしょう。友達は若い時の悪戯をよくした事を覚えていて、今になって素晴らしいことを言っても、信仰は本物ですのに、彼らはやっぱり昔のことを覚えていてそれを受け入れることができないのです。

最後の言葉にある通りに、イェス様は人々の不信仰に驚かれたのです。人々はイェス様のおっしゃることは正しいとはよくわかって、また他の町で人を助けたり、奇跡をなさったりした噂を聞いて感心していたのですが、でも彼らにとってはまだ、あの町のボッチャンですか、子供のときは良い子でまじめでしたが、でもこんな素晴らしい人になったことを、信じられなかったのです。この、信じられなかったことを、イェス様は問題にしていらっしゃるのです。不信仰に驚かれたのです。

私たちの世の中でも、そう、私たちもその中に入るでしょう。思い込んでいることがあるのです。最近聞いた話ですが、去年でしたか、一昨年でしたか、タイタニックの映画が出て大勢の人がそれを観ました。私はまだ若いときにその事件が起こったので覚えてますが、タイタニックは当時では最新のもので、新しい装置も付いていて、絶対に沈没しないように設計されていたのです。絶対に沈まないと人々は信じて初航海の英国からアメリカに行くところで、新しい記録を作るためにかなりのスピードを出していたのでしょう。聞くところによりますと、その船へ他の船からいろいろな連絡があったようでした。当時は無線の連絡でしたが、無線係は大勢の御客様に頼まれたことで忙しくしていました。ニューヨークについたときの車の用意やこれは初航海でしたのでついたときのパーティーを計画していて、そのご馳走の注文を頼まれて連絡をしていたりで、かなり近くにいた船からの連絡も、いま忙しいから黙っているようにと注意を受け入れなかったのです。そのために私たちの知っている大惨事になったのです、警告を受けて、氷山が近くに見えたことも連絡されていたのですが、それを聞いていなかったのです、聞こうともしなかった。この船は絶対に沈まないと信じて聞こうともしなかったのです。

そのように私たちの世の中で私たちの信仰に問題になるのは、聖書の言葉です。聖書によれば、私たちは皆罪人であるということですね。完全な人は一人もいないということです。それはよくわかっているのですが、でも私たちのは、いくらか真面目で、できるだけ間違ったことをしないように気を付けていて、ことに他の人を見て、他の人と比較して、あの人よりももっとこちらのほうが良いでしょうというような考えを持って罪人という言葉に引っかかるのです。教会に初めてこられた方には珍しい言葉でしょう。もっと訳を知りたいと思うが、でも聖書を読むことによってわかります。聖書の初めから人間は神様の言うことを聞かないで、木の実を採ってはいけないと言われながら採って食べてしまって、人間は変わってしまったと、そのことを私たちは教わっているのですが、でもなんとなくまだ自分の力で、よいことをして、神様に誉めていただこうと考えたりしています。

また、そのように教える教会もあります。良いことをしていたら天国にいけると、キリスト教だけではなく、ほとんどの宗教はそのように教えているので、「罪人」と言われることは嫌なのです。そう言われても信じないのです。

今日の旧約聖書の日課で神様がエゼキエルに「彼らのやっていることは違っています。悔い改めるように教えなさい。そして神様の約束を信じなさい。救い主を送りますから信じるように。」とイスラエル人に伝えるように言われたのです。エゼキエルはその通りにイスラエル人に伝えます。イスラエルはバビロニアの大軍に負けてバビロニア地方に連れて行かれたのです。その後エルサレムも全滅になって、彼らが礼拝をしていた大神殿がなくなっているのです。中にあった高価な物も全部敵が取ってなくなるのです。さらにエゼキエルの奥さんも亡くなると神様は言われました。エゼキエルはエルサレムが無くなる、神殿が無くなる、そして、自分の妻が亡くなるということを聞かされても、彼は神様の言われる通りにしなければならなかったのです。

私たちは神様を信じているから全てがよろしいようになるとは限りません。エゼキエルも苦労します。その後、コリント人への手紙を書いたパウロも苦労します。パウロは立派なクリスチャンとして、多くの人に福音を伝えて彼からかなり大勢の人が信じるようになっていたのです。素晴らしい宣教師であったと私たちは思います。その彼も何か一つ悩みがあった。それが何であったかわかりません。彼の生まれつきの良くない性格か、あるいは身体的に何か良くない所があったかは分かりませんが、それが彼の仕事の邪魔をしていた。

だから一生懸命祈ってそれを取り除いてくださるよう何度も祈るのです。三度も祈ったのですが、神様は「私の恵みは十分である」とお応えになるだけでした。苦しいことを取り除いてくださらなかったのです。私たちも信仰をしたら幸せになるということではございません。この世にいる限り私たちは、嫌なことにであったり、自分も弱いものですから、欠点だらけですから、苦労の原因がそこにもあるのです。私たちは神様に反逆したという気持ちは勿論ないと思いますが、場合によれば「神様はどうして」といいたいときがあるのです。どうして私たちはこの様に苦労しなければならないのかと思うときがあるのです。

パウロは一つ自慢できることがあったようです。彼は特別に神様から天国への幻ですか、私たちにしたら夢というでしょう。天国を見ることが出来たのです、一時ですがね。

「天国を見た」と、それを聞かせて自慢して、「私は特別に神様に教えられたものです」と、そう言うことを言わないために、彼に痛いものを、彼を目覚ませるもの、とげのようなものが与えられていたのです。それでいくらそれを取り除いてくださいと言っても神様はそのままにしておいたのです。それが彼は自分のためだとわかっていたのです。私たちもいろいろ苦労があって、、いやなことがなかったらいいなと思うことがありますが、その苦労のために、その痛みのために私たちの目が神様のほうにむけられるのです。やっぱり私たちのためにそのようなものが与えられているのではないでしょうか。神様は一人一人を愛しておられます。苦労といっても人によって違います。同じ状態であっても人によって、ある人は大変苦しいと泣き出すのですが、また他の人は同じ境遇にいても難しいと思うのですが、痛いと思うのですがそれほど苦しまない、また悩まない人もいます。だから私の苦労とあなたの苦労が同じとは言えないのです。一人一人の苦しみはその受け方が違うのです。でも、その苦しいことがあることが本当は私たちのためなのです。私たちはその苦労がなかったらきっと神様のほうに向かないで、神様はいらっしゃらない、神様を信じなくても良いと思って自分勝手な生活をしているでしょう。

今日のお話はパウロもエゼキエルもまた、イェス様もまたいやな思いをされたのですね。

彼らがわかってくれない。神様がちゃんと聖書の中の言葉に救い主の約束をしておられることを聞いてそれを知っていて、信じているつもりの人たちが分かってくれない。彼らは他だ自分も考えでもって、イェス様は大工で、大工の子供だと自分の町で育った人だというようにあまりにもなれているものであったから、侮ってしまったということですね。このイェス様のこのようなご苦労は今日のお話は二度目であったようです。一回目はこの町の人たちがイェス様に奇跡をしてもらおうと無理やりにイェス様を利用しようとしたのです。イェス様が断られると、彼らは怒って町の外にある崖からイェス様を落とそうとしたのです。イェス様はそれから逃れることは出来たのですが、イェス様にとって一番寂しいことは、彼らのためにも神様がこの世にイェスさまを救い主として送られたのです。

イェス様がイザヤの言葉にある神様の約束は、私によって果たされるのだと聞かせてもそれを信じなかったことです。

人間は自分の考え通りにイェス様がしてくださったら喜んでそれを受け入れる。でも、自分の思ったとおりでなかったら信じないということは、私も牧師として、二三度そのような経験があります。立派な信仰を持っていたと思ってた人が、聖書の一つの言葉に凝りすぎて、そればっかりを主張して、そうでなければならないと全体的にそれを見ることが出来ないで、勝手な解釈をして、いくら教えようとしても頑固に、ちょうどナザレの人たちのように、自分の思いが正しいとそれを改めない、このような事が時々起こるのですから、私たちも神様のおっしゃることを受け入れて、自分で理解できたから本当と思うことではなく、第一は「神様がそうおっしゃったから私たちはそう信じます」といたしましょう。

私たちの頭が神様よりも大きいものだと考えるのはおかしいことではないでしょうか。

とにかくイェス様も自分の故郷の親しい人たちを導いて救おうとなさったのですが、分かってくれなかったという、ちょっと寂しい今日のお話でございました。

六本木教会の礼拝にいらっしゃいませんか。
毎週日曜日の午前11時から行われています。教会は営団日比谷線六本木駅から徒歩約10分のところにあります。
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