2000年8月13日(聖霊降臨後第9主日) 聖書日課と説教
第一日課 アモス書7:10-15
べテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わせて言った。「イスラエルの家の真ん中で 、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません。アモスはこう言っています。『ヤロブアムは剣で殺される。イスラエルは、必ず捕らえられて、その土地から連れ去られる。』」アマツヤはアモスに言った。「先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。だが、べテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから。」アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、イチジク桑を栽培する者だ。主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。」
第2日課 パウロのエフェソ人への手紙1:3−14
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れないものにしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって、神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方のご計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。
福音書 マルコによる福音書6:6b−13
それから、イエスは附近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、2人づつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖を一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして、「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、、そこを出て行くとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。
説教 「神様はもっと先の私たちの幸せを考えられておられます。」
マルコによる福音書6章7節から13節のお言葉でございます。
イエスさまはお弟子さんたちを連れてガリラヤ地方を歩いておられましたが、今日の聖句によりますと、その弟子たちに彼らも伝道に参加することをイエスさまがお許しになったのです。それまではただ聞いて、見たりしていたのです。実際に自分たちが神様のお言葉を人に聞かせようとすると、もう少しよく考えて、その言葉が自分の身に着くものです。そこでイエスさまが十二弟子を派遣なさったのです。一人一人ではなく、二人を組にして、互いに助け合って伝道することになったのです。彼らがそのような経験をして戻って来たとき、とっても喜んでいたことでしょう。いい経験であったということです。しかし、必ず良いことばかりではないのです。例えば、今日の旧約聖書では、イエスさまがある人を伝道に行かせたのです。昔ですから預言者としてです。それはダビデ王、ソロモン王の後に国が二つに分かれて、北の方がイスラエルと言う名前を使っていて、エルサレムを中心にした部分はユダあるいはユダヤとなりました。アモスという神様に遣わされた人はユダの人でした。でも、彼はイスラエルに行って預言をするようにと神様に言いつけられるのです。神様のお言葉は厳しかったのです。国の王ヤラベアムは殺されるといわれ、国の中心の人が亡くなるのはもう少し後のことですが、アモスの妻が亡くなることも言われていて、実際に神様の御用をしているときにアモスの妻も亡くなってしまいました。とにかく良いことばかりではなかったのです。その上、その国の偉い祭司長が彼に「もうそのような話をここでするな」と止めるのです。そこで、アモスは自分は預言者ではないし祭司でもない、特別な訓練を受けた者ではないが、神様が行けと言われたのでここに来て話をしているのだと説明するのです。アモスにはこのような苦労がありました。
わたしたちも福音を人に伝えたいと思って人に話しかけても、必ず人がそれを聞いてくれる(という)ことではないのです。わたしたちの世の中も、丁度アモスの時代に似ています。景気は良かったのです。皆繁盛していてそんなに困っていない時代でした。しかし、そのすぐ後にバビロニアが攻め込んで彼らを捕まえて捕囚としてイスラエルの十二支族のうち十支族、北のイスラエルはどっかに連れて行かれたのです。その跡は、考古学者によって今調べられているところでは、一部は確かにインドの山の中の離れたところに今でも目玉の青いものや、変わった言葉を使っていて、彼らの習慣もなんとなく旧約時代が見えるようなものがあるそうです。そこに一部が連れて行かれたでしょうと思われます。
わたしたちも今丁度お祭りの時期ですね。そのために、わたしたちの国の人はあまり教会に来ていない。わたしたちはそれで少し寂しいのですが。でもできるだけ元気よくいたしていますが、そうね、どう説明したらいいでしょうか。わたくしはこういう話を聞きました。これはアメリカの話ですが、南北戦争があったのです。南北戦争の一つの目的は、南部の人達は奴隷を使っていたのです。クリスチャンはそういうことをするべきではないと、そして、南の方から北に逃げてくる顔の黒い人も結構いたようです。そして南北戦争は北が勝ちました。奴隷は皆自由になって、奴隷を持つことが禁じられて、黒人はどこへ行ってもよいことになりました。当時の人が珍しがっていたことは、奴隷であった人が喜んで他のところへ移ったのではなく、大部分はそのままに残って、いつもと同じように主人に仕えていて、奴隷生活をしているのです。よく辛抱しているなあと思って、ある人が一人の奴隷に「どうしてあなたは昔と変わらずに(主人に仕えているんですか)、この新しい時代になってあなたは自由でもはや奴隷でもないのに」と聞いたその答えは「わたしはそれを聞いておりますが、わたしはここの場所の生活しか知らないのです。だからそのまま続けているのです」でした。
それと同じようにわたしたちの世の中でも他を知らない。今までずうっとこうしてやって来たからそれを続けていると言うことでないでしょうか。日本の習慣には宗教的な習慣があって、お祭りもそれに含まれているでしょう。何故するかという訳は知りませんが、本当に信じていることでもない。中には熱心な信者もいるでしょうが、一般の人たちはそうではなく、ただ楽しく踊ったり騒いで飲んで賑やかに御馳走もたくさん出るという楽しさがあるが、これしか知らないという考えでないでしょうか。
それで、わたしたちはアモスの時代と同じように日本の国もイエスさまを知ってもっと先の事を考えて、大いなる天国に行く希望を持ったら良いなと思っていますが、人に話してもそれを聞いてくれるのではないのです。あまり反対はしないが、ただうん、うんと言うだけで、全然言葉が心に届いているようには見えないのです。わたしたちもどうしたらよいかと、少しわたしたちの信仰が足りないか、熱心さが足りないないかと思ったりいろいろ自分を弁明しているのですが、でも本当は人が信じることは、わたしたちの力で信じることではないのです。勿論わたしたちはみ言葉を聞かせることはしなければならないのですが、そのみ言葉を聞いて信じるのは、信じさせるのは神様ご自身です。聖霊の働きです。これは繰り返して申しますのですが、信じる人は自分の力で信じたことではないのです。神様が与えなさった信仰です。神様が、パウロの言うように、神様がこれを考えていてくださったのです。パウロの言葉を見ますと、神様が天地宇宙を造られる前に、歴史がはじまる前に、わたしたち一人一人を知って、思って、この人は必ず信じるようになると決めてくださって、この人は、わたしたちを含めて必ず永遠に生かしておくということを神様が予め決めておられるのです。わたしたちが何をしたかではなく、神様がわたしたち一人一人を前もって思っておられた。そして、愛しておられたのです。それを今になってわたしたちは少しわかってきたのです。嬉しいことです。でも自分が何かをやったから、真面目にやったから、一生懸命に信じようとしたから、救われて永遠に行かされているのではなく。神様がこのように考えて、一人一人を子供にしてくださって、神様と親しい関係を持つように神様が考えて工夫をしてくださったのです。そのために御独り子イエスさまをこの世に送られて、彼も苦労しました。人に神様の愛を聞かせようとします。中には信じる人もいます。数も少なくはなかったと思いたいのですが、でも人間は変わりやすいので、はじめの伝道では、ちょうど今日の聖句の頃はよく受け入れてイエスさま、イエスさまと言っていたのですが、徐々にエルサレムに行って十字架にかけられる少し前から信じる人の数が少なくなっているのです。勿論何人かは残っていて、イエスさまをエルサレムで大歓迎をしたと記事を見ます。一週間前にはイエスさまにハレルヤと歌った人達の心が変わったことをわたしたちは聖書によって教えられています。でも、神様が一人一人を思って力づけていてくださっているのです。その神様の愛を知ったわたしたちは本当は大きな喜びを持っているべきです。本当の安心、これからどんなことがあっても良い、苦労があってもよろしい。わたしたちはその先のことを大いに期待できるのです。これがわたしたちの信仰で、丁度パウロも言ったように、わたしたちはこの世の中で一番幸せな者でないでしょうか。「喜んで、できるならば、み言葉を人々に聞かせていましょう」と、わたしたちに呼びかけておられます。
考えれば、他を知らないからこれでも良いと、解放されてもそのままでいる奴隷と同じように、わたしたちもサタンの奴隷になっていたのです。その状態から解放されているのです。わたしたちはそれを覚えて喜びを持って日々を送っていましょう。
神様はわたしたちの今の時も心配しておられます。でも第一はもっと先のことをご計画されて、わたしたちをそこへ含めて、わたしたちをご自分の子供にしておられます。「わたしたちは必ず守られて永遠に生きていつまでも幸せに与かるでしょう」と、わたしたちは信じられるのです。神様は初めからわたしたちの事を考えておられます。わたしたちの立場から言えば、後からそれがわかって、喜んでおります。一時は全然それがわかっていませんでした。信じてもいなかった。イエスさまをののしっていた仲間であったかもわかりません。神様がご自分のものにしてくださったので、わたしたちは確かにイエスさまのお陰で神様の子供になっているのだと信じることができるのです。
ちょっと昔話も交えて、変わった例を用いましたが、皆さんでそれを理解してわたくしと共に喜んでおりましょう。
「神に感謝します。かつては罪の奴隷でしたが、今は罪から解放されて神の奴隷となり、神の賜物は、わたしたちの主イエスによる永遠の命です。」(ロマ6:17−23)
六本木教会の礼拝にいらっしゃいませんか。
毎週日曜日の午前11時から行われています。教会は営団日比谷線六本木駅から徒歩約10分のところにあります。
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