2000年9月10日(聖霊降臨後第13主日) 聖書日課と説教
関東地区交換説教の日・杉並聖真ルーテル教会に於いて

第1日課   イザヤ35:1−3

 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ、砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。

第2日課      ヤコブの手紙1:2−18

 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。あなたがたの中で知恵の欠けてる人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。
貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。
試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熱して死を生みます。
わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。よい贈り物、完全な賜物はみな、上から光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。

福音書  マルコによる福音書7:24−30

 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取り付かれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシャ人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は、答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

説教  「苦労のうちに喜びがある。」

マルコによる福音書の7章24節から30節までのお言葉でございます。

この話はイエスさまがお会いなさったイエスさまの国の人ではないシリヤ、フェニキアの女、また、ギリシャ人であってとありますが、わたしたちの普通の言葉でしたら、外人ということですね。皆さんの仲間にも数人のいわゆる外人がいます。わたくしもその一人です。ただ、こういうちょっと白髪になっている者ですから、大分昔、いわゆる外人であったのです。戦争の前、わたしたち、アメリカにいる外人はいろいろ苦労あったと思います。まず、わたしたちの親たちは英語も知らずアメリカに行ってしまったので、まずその言葉を習います。あまりに日本語と違っているので、いわゆる一世ですか、一代目のアメリカに移っている日本人は一生あんまり英語をしゃべれなかったのです。わたくしの母もある家庭に住み込んで、はじめの12年間はそこで過ごしたので、少しは英語が出来る者でした。ですから他の日系人からはあの奥さんは少し英語が出来ると思われていたのですが、実際はそれほどではなかったと思います。とにかく、イエスさまがよその国にいらっしゃった時にこの事件が起こったのです。

わたくしも子供の時に、たびたび排斥という言葉を聞きました。その意味は人種差別でした。排斥はもっとひどい意味の言葉です。そのように、わたしはしばらく日本でないほかの国にいたのです。それで、この女の人の話を聞いて感心します。

マタイによる福音書にもこれと同じ記事が出ています。イエスさまははじめはあまり相手になさらなかったのです。しばらく何度も、何度もしつっこくその婦人が助けてくれ、助けてくれといってきますので、弟子たちもうるさく思って、「婦人をどうにかしてください」と言ったのです。そこで、イエスさまのおっしゃったことが、ちょっと珍しい言葉です。「イエスは言われた。『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない。』」人は敏感です。小犬と言われたら、ちょっとショックであったでしょう。でもこの婦人はじっと我慢して、この人はわたしを助けてくださることが出来ると信じて、イエスさまに助けを求めたのです。そのように言われても、感心することは彼女の答えです。「小犬は食卓の下に落ちた子供の食べ屑を戴きます。」パン屑を戴くという言葉は素晴らしい言葉ですね。それで、イエスさまも感心なされたのでしょう。マルコではマタイのように褒めてはいらっしゃらないのですが、イエスさまは「それほど言うならよろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」と言われました。その女が家に帰ってみると娘は完全に治っていたのです。本当に嬉しかったでしょう。

わたしたちはこのような人種差別の経験はあまりしないでしょう。また、犬と言われるようなことはあまりないと思います。でもここからちょっと学ぶことがあるのです。本当を言えば、聖書の話を聞くと、わたしたちは罪人と言われています。その為にイエスさまがこの世に来てくださったのです。現代の言葉ですと犯罪人です。国の法律を破った者は普通でしたら獄屋に入れられているのです。そのようにわたしたちは神さまに対するわたしたちの立場をよく知ってから、イエスさまにあっての罪の赦しを願うのです。わたしたちの立場は、神さまの目からは嫌なものです。わたしたちは全く神さまと付き合える者ではないのです。ただ、教会に来て、罪の赦しを何度も聞かされて、あのときのあやまちを赦して戴いて嬉しいということですが、本当は罪人であるということはわたしたちの状態を意味することです。そして、天国へ行く資格は全然ないのです。どんなに一生懸命にわたしたちがやっても、わたしたちは完全な人間ではありませんから到底十分な資格を持って天国に入ることは出来ないのです。そこで、神さまはわたしたちの事を思って、御独り子をこの世に送られて、主イエスさまをわたしたちの身代わりとなさったのです。そのお陰でわたしたちは天国へ行けるという、大きな希望を持っております。わたしたちが何をやったかということではなく、完全にイエスさまが救い上げてくださった救いです。これをわたしたちは自分によく聞かせていなければなりません。

わたしたちはいろいろ苦労がある、自分でもこれはいけない。まわりの世の中もとても汚いところだ。社会もなっていない。国もなっていない。いろいろきりがないですね、悪いことを考えると。わたしたちが住んでいるこの世の中はとっても汚れたものです。そして、その中にいるわたしたちは個人もよくよく考えてみると全然なっていないものです。ですから、ヤコブは手紙で「このような苦労があったら喜びなさい。」と言っています。嬉しいことです。わたしたちは自分の在り方、自分の本当の状態を知って、そういうものでありながら、イエスさまがわたしたちを救ってくださった。ですから、罪の赦しといったら、これは素晴らしいものです。ただ一つ一つの小さい過ちを赦したということではなく、わたしたちという汚い人間を神さまが受け入れてくださるということです。

そこで、今日の旧約聖書の日課ですが、「砂漠に花が咲いた」とありますが、皆さんはそれを見たことがあるでしょうか。日本には砂漠はありませんが、何か写真やテレビでご覧になったと思いますが、アメリカのところどころ、カリフォルニア州にも砂漠はあるのです。隣りのアリゾナやニューメキシコもそうです。そこはもう涸れて砂ばかりです。そこにたまに雨が降りますと、驚くことに花が咲いて全然色が変わるのです。イエスさまのいらっしゃった地方も砂漠といったり荒野というところがあったでしょう。ヨルダン川の東のサウジアラビアはまったくの砂漠です。時々そこにも雨が降って、美しくなる例を見て、神様の意味しておられることは、その乾いた何もないところに花が咲くということはこれは天国のことでしょう。わたしたちも驚くことでしょう。まわりがあまりにも美しくて、それ以上に自分を見て一番驚くでしょう。わたしたちの自分の嫌な所が全部なくなっている。わたしたちは神さまと付き合うのに十分資格のある者に変えられているのです。これが救いです。わたしたちは簡単に救い、救いと言いますが、これはとっても素晴らしいことです。それを思いながらわたしたちもヤコブと共にまた、フェニキアの女と共に喜ぶことが出来るのです。神さまがわたしたち一人一人のことを思ってくださって、ただ助けるだけではなくわたしたちに永遠の命の素晴らしい生涯を与えてくださるのです。その生涯は一時的なことではなく、ただパッと雨が降って花が咲いたということではなく、永遠に続くのです。わたしたちには本当の喜びがあるのです。ただ今はヤコブのように苦労があるでしょう。でも、わたしたちの先が分かっていたら、そう言うものは辛抱できるでしょうね。そう、これがわたしたちクリスチャンの生き方ではないでしょうか。神さまの愛にすがっていて、まだまだ嫌なことがわたしたちにはありますが、でも、そういう苦労があっても喜んでいましょう。

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