2000年9月17日(聖霊降臨後第14主日)
聖書日課と説教
第1日課 イザヤ35:4−10
心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」
そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。
そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。
荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり、乾いた地は水の湧く所となる。そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ、愚か者がそこに迷い入ることはない。そこに、獅子はおらず、獣が上って来て襲いかかることもない。
解き放たれた人々がそこを進み、主に贖われた人々は帰ってくる。
とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。
喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。
第2日課
ヤコブの手紙1:19−27
わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去るとそれがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。
福音書 マルコによる福音書7:31−37
それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラや湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」と言う意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
説教 「救いは完全なものです。」
マルコによる福音書の7章31節から37節までのお言葉でございます。
皆さんは聾唖者の話し方の手話をご存じないと思いますが、ご覧になってもちょっと分からないものでしょう。イエスさまがここで耳を指して、口を指されたのは、現代の聾唖者にとっては「わたしはその人が聾唖者であることを分かっている」と言う合図で喜びます。さらにイエスさまが天に向かってため息のような、声が出なかったのですが、そのようになさったことは、あの聾唖者にとっては神様にわたしのために祈って頼んでおられると彼に伝わった事でしょうと思います。そこで、イエスさまは「エッファタ」とおっしゃって、この人は聞こえるようになったのです。大変喜んだことでしょう。それまでは一言も人に言うことが出来なかったのです。
皆さんは聾唖者と接したことは少ないでしょうと思いますが、わたくしはまだ若い頃セントルイスの神学校の生徒をしていた頃、聾唖者の教会を訪ねたことがあります。ミズーリルーテル教会は聾唖者伝道に力を入れているのです。その教会に入るとまず、その壁は黒くなっています。色をつけないで、かえって暗い色のままで、聾唖者の教会が寂しい感じを受けたのですが、その後に礼拝が始まって分かりました。その色のバックでしたら手話の手がよく見えるのです。他の物が邪魔にならないで彼らがよく見えることが大事だったのです。礼拝が終わって皆さんが交わってる時はとっても賑やかでした。彼らは耳が聴こえないので何も話せない人達ですが、手話で一生懸命お互いに話をしているのですが、熱心に同じ聾唖者と話せることで喜んでいるのが声に出ているのです。彼らにはその声は聴こえないのですが、とても賑やかにわたしには聞えました。彼らは本当に寂しい毎日を送っているのではないでしょうか。この教会へ来たら話が通じることの喜びがあることをわたくしは見て、彼らのために祈りたいと思いましたのです。
このようにイエスさまが一人の聾唖者を聞こえるようになさったことは、その人には大きな喜びでしたでしょう。そして、話すことが出来るようになって、すぐにも「こんなに嬉しい」としゃべりたかったことでしょう。
わたしたちは聾唖者は目が見えるから、本が読めていろいろ楽しみがあると思いますが、実際にはそうではないのです。彼らが聞いたことがない言葉で本が書かれています。文字があるのです。例えば彼らにとって代名詞の“わたくし”は自分を指すだけでそれで“わたくし”となるのです。でも、日本語でしたら、おれ、わたし、ぼくと言う言葉がいろいろあるのです。使い方によって、そのときの雰囲気によってあるので、彼らは一つだけですので分からないのです。言葉がわたしたちは通じるでしょうと思いますが、本を読んでも面白くないのです。聞いたことがない言葉ばかりで分からないのです。どういうばあいにつかわれるかも聞いたことがないので、分からないのです。それで聾唖者の手話は特別な彼らにだけ通じる言葉です。わたしたちも考えさせられているところです。
それで話すことが出来るようになった彼は喜び、また周りの人も喜んで祝ったのです。偉い先生が来て彼の病気を治してくれたと多くの人に伝えようと思ったのですが、イエスさまが口止めをなさったのです。「言うな」とおっしゃったのです。
今日、わたしたちはそれを考えてみようと思います。
耳の聴こえない人を聴こえる人に、口が利けない人を話せるようにしてくださったことは、勿論大きな喜びでした。その人はイエスさまが口止めなさっても、やっぱりあまり嬉しかったので、人々にこれを聞かせたのでしょう。でも何故イエスさまが口止めをなさったかをわたしたちは考えるべきです。イエスさまはただのお医者さんや聾唖者の耳を治す人として知られることを好まれなかったのです。それよりも彼がこの世にいらした大きな目的があるのです。人々を助けることをイエスさまは喜んでされたのですが、でも、人々に何が一番大切な問題であるかと言うことをイエスさまは知ってもらいたかったのです。このままの人間でしたら、口が利けない人が利けるようになって、喜んだり、賛美歌を歌ったりするようになった嬉しさはあるでしょうが、それだけが彼にとって大切なことではないということをイエスさまが心配しておられたのです。あまりにも大勢の人が押しかけてきて、彼の仕事を邪魔することをイエスさまは問題だと思って「だれにも言うな」と言われました。「わたしは喜んでこの人を治したが、わたしにはもっと大切なことがあって、(来たのです。)わたしは皆さんを救うためにこの世に来たのです。人は皆どの人間も罪人で、救いが必要であって、自分の力で天国へは行けないので、わざわざこの世に来たのです」と言われます。その後のことはわたしたちはよく知っていますが、十字架に磔けられてわたしたちの罪を贖ってくださったのです。それがイエスさまにとって一番大事なこと。それよりもわたしたちにとって一番大事なことだったのです。だからもう少し人間の在り方をおとなしく(静かに)考えることが大事だとイエスさまはそう思われて皆に聞かせようとします。勿論聞かせても全部が分かったかといことは、どうでしょうかね。ちょっとわたしたちは心配します。
でも、今日のもう一つの聖書の日課、ヤコブの言葉ですが、わたしたちの人間としての大きな問題は、わたしたちの口があまりよくないと言うことです。舌という言葉が使ってありますが、わたしたちの話す言葉をもっと気をつけて、もう少し言葉をよく選ぶべきであり、選ぶためには、心でわたしたちが罪人であることを分かって、神様に愛されていることを意識してしゃべることです。人と付き合うことです。
ヤコブが言っています。人が鏡を見て自分の顔がこんなものと分かっても、その鏡を置いて外に行ったら、どんなものであるかをもう忘れている。ただ、自分が思いたいことしか考えていないのです。そのように、わたしたち人間は本当に神様の目から見たら嫌な者でしょう。物が分からない人で、ちょっと分かった振りをしてるのですが、本当はわかっていないのです。よくケンカをして、怒って傷つけ合っているのです。そこでヤコブは、「話すことはゆっくり話しましょう。すぐ話さないでいましょう。」とわたしたちに薦めています。皆さんはわたくしをどう思っていらっしゃるでしょうか。わたしは母親から小さい時「ジョージ、あなたは短気だ」と何度も聞かされたのです。短気、すぐ怒る者と、それを繰り返して今ではかえってもう少し話にすぐ答えたり、人を助けることが出来たらいいなと思うときもあったりします。でもお陰様であまり早くしゃべる事をしない人間になってしまったのです。母のお陰で、それは母に感謝すべきでしょうと思います。皆さんもそういう経験がありませんか。ただ一回では十分ではないかもしれません。わたしたちは何回も何回も言われてやっと少し悪い癖を直すのですね。教会に来ていろいろ言われて、明日もう忘れているというようなことが少しあるのではないでしょうかと少し心配します。でも、イエスさまの目的は、本当に聞かせたいことはもう既にみ言葉のうちにはっきりと出ています。その一例は今日の旧約聖書の日課です。神さまがイザヤを通してわたしたちに天国はこういうところであると教えてくださっています。わたしたちは皆、いろんな弱いところがあって、よく見えない盲人ではないでしょうが、でもよく見えないことがある。耳も悪い、よく聞こえない。聞かされてもその本当の意味が分からない。まわりのいるところは砂漠のような所だと考えられる時もあります。でも、神さまが準備してくださったところは、まず、わたしたち人間一人一人を変えて、もっと見えて、聞こえて分かる頭のよいものにしてくださるのです。そして、環境もよい所にして下さる。だから、道路も大きな広いまっすぐな道路です。迷路ではありません。迷うようなところではございません。そして、わたしたちはいつも歌っている、歌うことは喜びを表しているのです。そういうところに神さまがわたしたちをいずれ連れて行ってくださるのです。先週も申しましたのですが、罪の赦しは一つ一つの過ちを片付けてくださったということだけではなく、もっと大きなものです。わたしたちを天国に相応しい者に変えてくださるということです。わたしたちには今想像できないものです。以前、「わたしたちは皆美男子、美女になるでしょう」と説教で言ったことがありますが、その通りにわたしたちの罪を贖ってくださって、罪を赦してくださったという意味は完全にわたしたちを変えてくださって、わたしたちの環境も素晴らしいものにしてくださるということです。わたしたちはどっちが先かは分かりませんが、天国という素晴らしいところへ行ったら、今の状態の人間でしたらぜんぜんそこに相応しくないですね。かえって苦しいでしょう。一時神さまはアダムとエバをエデンの園から出しましたのです。彼らの住めるようなところへ行かせたのです。今度はその逆、わたしたちを変えてくださって、あそこに、神様の国に相応しいようにわたしたちを造り替えてくださるのです。これが救いです。今のわたしたちには想像できないほど素晴らしいことです。イエスさまがされた一つ一つのことを喜ぶことは悪くないことですが、聾唖者がしゃべることが出来たことを喜ぶこともよいですが、でももっと大きな、もっと大切なことをイエスさまはわたしたちのために考えておられる(という)ことをおっしゃりたいために、「あまり人に言わないで下さい」とおっしゃったとわたしたちは察します。
そう、イエスさまの愛は素晴らしい大きいものです。その愛をわたしたちは頼りにしております。
六本木教会の礼拝にいらっしゃいませんか。
毎週日曜日の午前11時から行われています。教会は営団日比谷線六本木駅から徒歩約10分のところにあります。
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