2000年10月1日(聖霊降臨後第16主日) 聖書日課と説教

第1日課   エレミヤ11:18−20

 主が知らせてくださったので、わたしは知った。彼らが何をしているのか見せてくださった。わたしは、飼いならされた子羊が屠り場に引かれて行くように、何も知らなかった。彼らは、わたしに対して悪だくみをしていた。「木をその実の盛りに滅ぼし、生ける者の地から絶とう。彼らの名が再び口にされることはない。」
万軍の主よ。人のはらわたと心を究め。正義をもって裁かれる主よ。わたしに見させてください。あなたが彼らに復讐されるのを。わたしは訴えをあなたに打ち明け、お任せします。

第2日課      ヤコブの手紙4:1−10

 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。
得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵になることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。

福音書  マルコによる福音書9:30−37

 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉がわからなかったが、怖くて尋ねられなかった。
一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者となりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくてわたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。

説教  「この世の問題の解決は、幼児にならなければとは」

マルコによる福音書の9章30節から37節までのお言葉でございます。

今日の聖書のお言葉は主イエスさまが叱っておられるように聞こえるかもわかりません。イエスさまがエルサレムに向かっていらっしゃる準備をしておられて、そこで、これからどういうことが起きるかを弟子たちにお聞かせになったのです。

「人の子は人々の手に引き渡され、殺されて、三日目に復活する」とおっしゃったのです。きっと弟子たちの耳には、殺されるという言葉が届いたのでしょう。彼らは困ることになると、わたしたちの主であるイエスさまがいなくなると思って、その後の代わりの人に誰がなるのかと、いちばん偉い人は誰でしょうかと彼らの間で話し合っていたのです。勿論イエスさまはそこにはいらっしゃらなかったのでしょう。

そこで、イエスさまが彼らに聞かれるのです。「あなたたちが今真剣に話をしていたのは、どんな話ですか」と。でも、彼らは黙っていました。イエスさまは一人の子供の手を引いて連れていらっしゃいました。ということはその子はおそらく1歳前後のヨチヨチ歩きの子供であったでしょう。普通の子供でしたら、「おいで」と言っても良かったのでしょうが、でもこの子はあまり良く歩けなかったので、手を引いて連れて来てそこに立たせたのです。そして、すぐ抱き上げたのです。ということはあまり小さいので長く人の前に立つことが出来なかったのでしょう。イエスさまはその子供を例になさって、「わたしの名のために、このような一人を受け入れるものはわたしを受け入れるのである」と言われました。受け入れると言う言葉ですが、他の聖書では、歓迎するという言葉で書かれていますが、その意味は、その一人を大事にすることです。だいたい大人は子供を見下ろしています。何も出来ない、かえって厄介者であると、父親はことに母親に任せっきりにしていたりしますが、だから受け入れるという、イエスさまのその言葉にはもっと深い意味があるように聞こえます。本当にその子供を大事にするということです。勿論、可愛いから誰でも無力な者を抱いたり甘やかすのですが、その意味ではなく、ただ甘やかすだけではなく、一人の人間として受け入れることです。これがイエスさまが意味されたところだと思います。一人の人間として大事にすること、甘やかして遊んだり、話しかけたりではなく、この人は神さまにとって大事な人だと思うことです。神さまは確かにこの子を、この子だけではなく、一人一人の人を、力があるか無いかにはかかわりなく、どんなに偉い人であるかは関係なく、神さまは一人一人を愛して受け入れてくださるのです。

この話の前に旧約聖書の日課で、ちょっと珍しい話ですが、神さまがエレミヤに「あなたの命をねらっている人がいる」と言われて、エレミヤはびっくりします。エレミヤは全然そんなことを思ってもいなかったことでした。皆が彼を偉い者として扱ってくれたからです。でも実際には彼らの心の中にはそれがあったのです。エレミヤはそれを聞いて神さまあなたの良いようにしてください、守ってくださいと言う意味でしょう。でも神さまの御用でしたら何でもやりたいと、殺されても良いとの意味を含めていたと思います。実際にはエレミヤは結構長い生涯を過ごします。そして、最後は弱っていたので、無理やりに連れられてバビロニヤの軍が攻めて来たときには彼はエジプトへ行ってそこで亡くなったのです。そのように気がついて気がついていなかったことがあったのです。「人が彼の命をねらっていた」のは、神さまのお言葉を人々に聞かせようとしたエレミヤを人々は嫌に思って、そんな話は聞きたくないと彼を殺そうと思ったのです。

また、ヤコブの手紙の中にいろいろ議論があったり争いがあったりという話がございます。その問題はヤコブの話によれば、ケンカになったことよりも、その一人一人の心が問題であるので、自分の利益、自分の良いようにと考えているだけで、他人のことを全然考えない、自分が幸せであればそれでよい、というようなことで、ケンカのもとは大体自分中心の自分の欲望のために利益を求めるから喧嘩をするのです。ヤコブはそれを気をつけなさいと言って、もっと厳しい言葉ですが、そのようなことを考えている人は神様の敵であると、自分を中心としている人は神さまの敵であると言っています。その人は知らず知らずそうなるのでしょうが、でも考えてみると実際にそうではないでしょうか。わたしたちは、第一に神様に従って神さまの望まれることを一生懸命にしているはずですが、人間はそうではなく、神様を忘れて、自分が欲しいものを一生懸命に求めて、人に害を与えてもいいと思ったり、またケンカして取り上げたり、また人を利用したりしています。

わたしたちは本当はイエスさまに救われた者です。イエスさまがわたしたちの味方であって、わたしたちがサタンに立ち向かって行けば、サタンは逃げていきます。実際にはイエスさまがサタンを無力なものになさったのです。わたしたちの罪を贖ってくださったことの、これは一つの大きな意味でございます。

わたしたちには悲しいことや、難しいこともあるでしょうが、神さまが必ずわたしたちを抱き上げて必ず再び立たせてくださるのです。だから、自分を忘れて謙遜になって、わたしたちは神さまのことを思い、主イエスさまのことを第一にして、生きているべきでありましょうと、ヤコブが話しております。

そういう意味を含めて、再び福音書に思いを戻しましょう。イエスさまはこの小さい子供の手を引いて、抱き上げて弟子たちに考えさせました。

実際にわたしたちは罪人であるためにこの幼児のように弱いものです。神様が守ってくださらなければ、わたしたちはとんでもないことになるのです。エレミヤのように命をねらわれているとは思ってもおりませんが、場合によればそういうこともあるのです。この世の中は本当に罪に満ちていて、わたしたちは自分で自分を守らなければならないと考えるほどわたしたちは不安を感じます。でもイエスさまが純な子供を立たせて、「このようなものを受け入れるならば、神さまも受け入れます」と言われました。

イエスさまに抱かれていた幼児もすっかり主に懐いて抱きついています。これがわたしたちの本当の姿勢です。完全に救われて主に頼っている子供であるのです。さらに、主は言われました。「わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」と。すなわち、父なる神とのかかわりは確かなものなのです。

六本木教会の礼拝にいらっしゃいませんか。
毎週日曜日の午前11時から行われています。教会は営団日比谷線六本木駅から徒歩約10分のところにあります。
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