2000年10月8日(聖霊降臨後第17主日) 聖書日課と説教

第1日課   民数記11:24−30

 モーセは出て行って、主の言葉を民に告げた。彼は民の長老の中から七十人を集め、幕屋の周りに立たせた。主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、モーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老にも授けられた。霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、続くことはなかった。宿営に残っていた人が二人あった。一人エルダド、もう一人はメダドといい、長老の中に加えられていたが、まだ幕屋には出掛けていなかった。霊が彼らの上にもとどまり、彼らは宿営で預言状態になった。一人の若者がモーセのもとに走って行き、エルダドとメダドが宿営で預言状態になっていると告げた。若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、「わが主モーセよ、やめさせてください」と言った。モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」モーセはイスラエルの長老と共に宿営に引き揚げた。

第2日課      ヤコブの手紙4:13−5:8

 よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えていく霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」言うべきです。ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。
 富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。

福音書  マルコによる福音書9:38−50

 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だと言う理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまづかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

説教  「嫌な物から恵みが」

マルコによる福音書の9章38節から50節までのお言葉でございます。

イエスさまの弟子たちは、いろいろ立場を考えたりして、仲間意識も強かったと思います。そこで、弟子たちはある人がイエスさまの名によって、悪霊を追放していたのを見て、彼をやめさせようとしたのです。ところが、イエスさまは「そういうことをしないように」と言われたのです。「わたしの名によってしていることはわたしたちと一緒であって、逆らっている人ではない。敵ではなく仲間である」とイエスさまは説明なさったのです。その話から、イエスさまは小さい幼子を抱かれたまま、「これらの小さい者の一人を躓かせる者は大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」と言われて、さらに続けてもっと厳しいことを弟子たちに言われたのです。手が悪いことをすればその手を切り取って、あるいは目が悪いことをしたら、その目をえぐり出してというように、わたしたちはそこまで、信じること、また、天国へ行くことを真剣に考えるべきであるとイエスさまは言われるのです。

旧約時代の一つの出来事でしたが、モーセがイスラエル人をエジプトから導き出して、そこで、彼らの組織を立てようと、組織化しようとしたのですが、七十人を選んで、その人たちに、だいたい五百万人いたと思われていますが、その人たちを支配する権威を与えたのです。そして、彼らは、一般的な事でしたが、預言をしたのです。

預言は神様のみ言葉を人に聞かせることです。彼らは普段そういうことをしていなかったのですが、でも彼らの信仰を強めて、それがあふれ出るような状態にして、そして、彼らも、今でしたら説教が出来るようになったのです。と、同時にその七十人の仲間でしたが、何かのわけでそこに集まっていなかった他の人達もいたのですが、彼らもいわゆる説教が出来るようになったのです。その七十人の中の長老になって選ばれた人たちが、彼らを止めさせようとモーセに言ったのですが、モーセは「いや福音を伝えることは、神様がわたしたちを愛して救ってくださることを人に伝えることはやめさせません。彼らは味方です。立場や場所が違っていてもわたしたちと一緒です」と、止めさせました。それで、わたしたちは今日、わたしたちに考えさせられることは、神様が、わたしたちに一つ大切な能力を、力を与えてくださっているのです。それは神様のよい言葉を人に聞かせることです。

ヤコブの手紙を見ますと、人間はだいたい皆大きな夢をもっています。すばらしいことをしたいと考えているのです。そして、成功して、金持ちになっていろいろ何をするか考えて描いているのです。全部彼らは自分を中心としている考えをもっているのです。先程の弟子たちの例もまた、モーセの七十人の例も仲間意識が強かったのです。仲間でない人は駄目だと思っていたようです。

いや、そうではなくわたしたちは一人ひとりが神さまから大きな責任をいただいています。

聖書の譬えを申せば、わたしたちは、自然界を見て、秋になったら紅葉になって、冬になったら葉が落ち、もう少し先には春になって、また青々とするのです。そのようにわたしたちは、今苦しいことがあっても、いまちょっと苦労だと思うこともあるでしょう。でも神さまがわたしたちのことえをよくご存じで、よいときをまたお与えくださるでしょう。ちょうど春が来るように。実際はわたしたちの為に神さまが準備してくださるいわゆる“春”は、素晴らしいとき、気持ちよいとき、わたしたちの目を楽しませる時、豊富に戴けるときが来るそのときは、一言で言えば、天国です。イエスさまがわたしたちの罪を贖ってくださったから、わたしたち一人一人そこへ行く資格を持っているのです。仲間意識と言えば、全部の人にその素晴らしいことが行き渡るように神さまは希望しておられるのです。そして、わたしたちがそれを聞かせることがわたしたちの役目です。ちょっと難しいことがあるかもしれませんが、わたしたちは皆、神学校を出た学者や牧師ではありませんが、伝道の訓練をされていませんが、わたくしたちなりの言葉で人に聞かせて、聖書に忠実に話を聞かせることが大切だと、そうイエスさまはおっしゃっておられるのです。かえってイエスさまの言葉はもっと厳しいのですね。小さい幼児を迷わすなら、首に石臼をかけて海に投げ込まれたほうがまだよいと言われたり、手や足がよいことをしてくれなかったらそれを切り取ってしまった方がよいと、わたしたちの役割を果たすことが出来ない物は処分した方が良いと、イエスさまは厳しく言われています。その厳しさの中に神さまの熱心さ、わたしたち一人一人が救われることを望んでおられるという神さまのアッタカイ気持ちがそこにあるのです。表は厳しい。痛い。大変だ、そこまでわたしたちはしなければならないのでしょうか。わたしたちは皆弱い者ですから、物をすてることはいやですが、イエスさまはわたしたちはそうした方がかえってよろしい、片目になって天国へ行ったほうがよろしいでしょう。両目をもって地獄へ行くよりもはるかによろしい、と。勿論、片目の人も天国へ行けば両目を使えるようになるでしょうね。それはただ譬えとしてそうイエスさまはおっしゃるのですが、わたしたちはいざその場になったら、素晴らしいことに与かるのですから、わたしたちは今の世の中のものを惜しまない方がよいという意味でイエスさまがこうわたしたちにおっしゃるのです。だから、“火”という言葉は出ましたが、痛みでしょうね。わたしたちの体を痛めつけるようなもの、物をすてるのはちょっと痛いでしょう。もったいないと思うこともあるのでしょう。でもかえってそれがわたしたちの為になることで、わたしたちはかえって神さまの喜ぶ人間になっているのです。だから、イエスさまがこのような、わたしたちを驚かせるような言葉を用いてわたしたちを守ってくださっていると覚えていたいと思います。痛いことがぜんぶ悪いことではございません。かえってその中にはわたしたちのためになっているものもあるのではないでしょうか。このことを思いながら神さまの大きな大きな愛をしっかりわたしたちの心にいれておりましょう。

六本木教会の礼拝にいらっしゃいませんか。
毎週日曜日の午前11時から行われています。教会は営団日比谷線六本木駅から徒歩約10分のところにあります。
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