2000年12月31日(生誕後第一主日) 聖書日課と説教

 

第1日課   エレミヤ書31:10−14
 
 
諸国の民よ、主の言葉を聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。「イスラエルを散らした方は彼を集め、羊飼いが群れを守るように彼を守られる。」主はヤコブを解き放ち、彼に勝って強い者の手から贖われる。彼らは喜び歌いながらシオンの丘に来て、主の恵みに向かって流れをなして来る。彼らは穀物、酒、オリーブ油、羊、牛を受け、その魂は潤う園のようになり、再び衰えることはない。そのとき、おとめは喜び祝って踊り、若者も老人も共に踊る。

わたしは彼らの嘆きを喜びに変え、彼らを慰め、悲しみに代えて喜び祝わせる。祭司の命を髄を持って潤し、わたしの民を良い物で飽かせると主は言われる。

 
第2日課   ヘブライ人への手紙2:10−18

  多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないので、「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します」と言い、また、「わたしは神に信頼します」と言い、更にまた、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われます。ところで、子らは血と肉とを備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。それで、イエスは、神のみ前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
 

福音書   ルカによる福音書2:25-40

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰あつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入ってきた時、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。

「主よ。今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなた救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、。反対を受けるしるしとして定められています。…あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。…多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから7年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

   
説教  神様は常に信じられるように心配しておられます 柴田ジョージ師
   

ルカによる福音書2章25節から40節までのお言葉でございます。

イエス様はご両親に連れられてエルサレムへ初めての宮参りをするのです。これは、ちょっと日本の習慣に似ているところでないでしょうか。

そこで、全然会ったことの無い二人の老人、一人はシメオンという方、もう一人はアンナという婦人の方でした。

その老人たちは、イエス様を彼らの期待していた救い主であるということを既に分かっていたようでした。そして、祝福をするのです。それは大きな驚きでしょう。全然会ったことの無い人からこのようなことを言われて、マリアもヨセフもびっくりしたことでしょう。そこで、わたしたちが考えられることは、この二人は忠実な信者であって、神様のみ言葉をよく読んでいたようです。神様のみ言葉と言うのは、当時は旧約聖書だけでした。でも、旧約聖書をよく見ると、主イエス様のほとんどのことがそこへ記されています。預言として、あらかじめ知らされていて、人が知っているはずでした。例えば、誕生するところ、これは先週の話でしたが、ベツレヘムで生まれると言うこと、勿論ベツレヘムで生まれることは、昔の旧約聖書の大英雄であるダビデ王の子孫として生まれること。なお、乙女の子として生まれる。

まだ男を知らない女ですね。当時の王様がどのような人であるかは預言されていませんが、彼らは一時エジプトへ逃げなければならないと言うことも記されています。これはホセア書にありますが、今日の聖句のように、ガリラヤの方に行って、まず、イエス様が大人になって働くようになる。その他にエルサレムでは大歓迎があるという話し。イエス様が入城なさるとき大勢の人たちが喜んで迎えること。また、その話の中には友人が裏切るということ、そして裁判になって偽証人が出て、訴えられてもイエスさまは黙っておられること、殴られたりするということも書かれています。人に憎まれてわたしたちの身代わりとして苦しまれる。十字架にかけられる時は他の犯罪人と一緒にされる。多くの人々に嘲弄される。イエス様が十字架の上で、人のために敵のために祈られることも預言されています。番をしていた兵隊が彼の服を、着物をくじ引きにしたことも、預言されています。なお、亡くなって金持ちの人に葬られて、復活されることも話されています。

この預言について、簡単にプリントを作りましたので、後ほど欲しい方にはお配りいたします。このように神様は、主イエス様がこの世に来られることの準備をいろいろなさっておられたのです。だから当時の人がよく聖書を学んでいたらほとんどイエスさまのご生涯のことを詳しく知ったはずです。シメオンがその一人の人であったでしょうと私たちは考えることが出来ます。そして、この話しは、その国では、誕生から40日後に産んだ婦人が清め式をして、子供を神様に捧げると言う習慣があったのです。だから、これはクリスマスの日から40日後と考えていましょう。そして、さっき申しましたようにシメオンがそこにいたことは、これも神様の導きであったでしょう。大変に喜んだことも驚きでした。誰も知っていないところで、この人が大いに歓迎してくれたことですね。そしてその言葉の中に、「マリヤさんが喜ぶことは確かですが、でも痛いところもあるでしょう。」と言われます。この意味は、マリヤはイエス様が十字架につけられることを見ることになるでしょう。ということも含まれているのです。そこまでいろいろシメオンが分かっていたようです。どのように分かっていたかは僅かの言葉ですが、確かにイエス様が十字架に御自分をささげなさってわたしたちの罪を贖ってくださることを分かっていたと考えられます。

そこで、今日の旧約聖書でのエレミヤの言葉ですが、エレミヤはバビロニヤの捕囚の直前の時に預言をしていたので、いろいろ苦労があったようです。北の国の人たちは連れて行かれたのですが、彼自身は連れて行かれませんでした。人に強いられてエジプトへ逃げてしまったのですが、そのことによって、エルサレムの町は大破壊されて神殿もなくなってしまいました。しかし、彼はよく分かっていて、神様を信じて、神様が救ってくださるでしょう。神様が今の事情と違う喜びの時を与えてくださるでしょう。そして、食べるものが豊富にあり、若い者が踊ったりして、にぎやかである。そして面白いことに、牧師たちですね。貧乏な祭司たちも充分に恵まれることも預言しています。

そこで、使徒書でのヘブライ人への手紙の言葉によりますと、どうしてこんな大きな変化が起こるのでしょうかという質問が起きます。その、大きな変化をなさるのが主イエスさまご自身です。わたしたちの身代わりとして、苦しまれて、わたしたちには足りないこともありますが、イエス様のお陰で、完全に補われてしまう。それはただ外的な生活の要素だけではなく、わたしたちの心も変わってしまう。私たちは、もはや死ぬことも恐れない。、いろんな恐怖もなくなってしまう。一番大切なことは、わたしたちがイエス様の家族の一員であること。イエス様はわたしたちの兄貴である。イエス様はこの世にいらした間いろいろ苦労をなさったので、私たちの苦労もよくご存知で、わたしたちの苦労は耐えられる苦労でないでしょうか。とのお言葉です。イエス様はわたしたちの難しいこと、苦しみを御自分も体験しておられるからよく理解しておられるのです。そのことが使徒書の中に含まれて言われています。これはわたしたちに大きな希望と大な慰めを与えるお言葉でございます。

そして、今日、福音書の最後のところでは、イエス様はナザレに連れて行かれたとあります。これも事情があったことでしょうが、イエス様はそこで、普通の子供のように育てられて「幼子はたくまし育ち、知恵に満ち神の恵みに包まれていた」と今日のお話の終わりにございます。

ですから、わたしたちは先を見ると、今もいろいろ難しいことがあるでしょう。実際に苦しいかも分かりません。経済状態だけではなく、身体的な色々な弱さがあって、わたしたちには苦労と思わされております。でも、最後は完全によろしいのです。イエス様も子供の時はこのようでしたが、先にどうなるかは彼はわかっていたでしょうと思います。彼のふた親は分かっていなかったので、普通の子供として育てられていました。

わたしたちもそのように、ごく普通に、難しいことも無く、時々、喜びもある、かえって、今が良い時であると思うような時代もあると思いますが、神様が、わたしたちを生かしていてくださるということがその一番の根本でないでしょうか。

イエス様は 幼子の時にシメオンに大いに喜ばれたということ、当時はマリアもヨセフも充分に理解していなかったでしょうと思います。

わたしたちは神様に約束されていることを聞かされているのですが、それを十分に分からないところもまだあるのです。でも神様を信じて、神様についていましょう。わたしたちはいずれイエス様のようになると約束されています。という意味は、イエス様と一緒の家族の者となると、これは永遠の時ですが、それをわたしたちは今、余りに素晴らしくって、理解できないかも分かりませんが、それを信じいてまいりましょう。これが今年の最後の教訓でございませんでしょうか。

先はまだまだあるのですが、また、年が明けて、新しい年に新しい気持ちになりたいと思うのですが実際、わたしたち人間はそんなに変わる者ではありません。でも、本当の状態というものは、神様に守られていること、神さまがわたしたちの全てをよく分かって下さって、そして、心配してくださっておられること、だからわたしたちはただ、神様を頼りにして、また、新しい年を迎えましょう。これが、本日の聖書の日課でございます。

六本木教会の礼拝にいらっしゃいませんか。
毎週日曜日の午前11時から行われています。教会は営団日比谷線六本木駅から徒歩約10分のところにあります。
メールまたは電話(03-3405-9972)でお問い合わせください。

説教集目次へ戻る

© Roppongi Lutheran Church, JLC
Please send web-related questions to the webmaster.
Web site design and hosting by Educyber