あなたがたのために救い主がお生まれになった

2010年12月24日 聖降誕祭燭火礼拝
今日 救い主 誕生!
ルカによる福音書2章1〜20節
説教: 五十嵐 誠 牧師

◆イエスの誕生

2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。

2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。2:3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。2:5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

◆羊飼いと天使

2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」2:13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」2:15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。2:17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。2:18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。

2:19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。

2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

ルカによる福音書2章1〜20節


私たちの父なる神と主イエスキリストから 恵みと平安が あるように  アーメン

今日の説教題は「今日 救い主 誕生!」という題ですが、正しくは「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という天使の言葉です。その言葉を今日一緒に聞きたいと思います。

クリスマスというのは、いきなり来たのではありません。旧約聖書の時代から連結した時間の流れの中でおきました。パウロはガラテヤの手紙で「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」言い、クリスマスは「時が満ちて」起きた事で、それは「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れ」(テトス2:11)た日だと書いています。クリスマスは、旧約の、神の約束の成就・実現した事を私たちは知る日でもあるのです。その時間的な流れを追体験するために、クリスマスの四週間前の「待降節」という期間が守られ、心の準備をするといわれています。一番顕著なことは、クリスマスクランツです。四本のローソクを、毎週一本ずつ点灯して、四本つけるとクリスマスがくるのです。心をワクワクしてクリスマスを迎えることになります。その意味では今日は本当にうれしい、喜びの日です。

今ではクリスマスは大きな祭りですが、最初のクリスマスは貧しいものですし、人々の目を引かない出来事でした。

また、クリスマスは驚きで充ちています。受胎告知でもマリアは驚いています。「どうしてそんなことが・・」と言っています。ヨセフも驚きました。慌てて婚約解消を考えていました。荒野の羊飼いも天使の出現に驚いています。東方の博士たちは星を見て、驚いてエルサレムに向かって旅をしました。宿屋の人たちも驚いたでしょう。なぜなら羊飼いたちがやってきたからです。なんだこれはです。何故人々は驚いたかですが、それは思いがけないことが起きたから驚くということです。驚かない人もいました。それは赤ん坊が生まれたという普通の出来事と考えるからです。生まれた方が神の子であると気が付かないからです。当時の人はクリスマスを前もって知っていた人はいませんでした。神が計画し、実行したからです。こんな仕方で神の御業が起こるとは、予想できませんでした。

クリスマスはイエス・キリストの誕生日ですと言います。ご承知のように戸籍が残っているわけではありませんから、正確ではありません。当時の他宗教の祝祭日を、意味を変えて転用したと言われています。そういうことはよくあります。また。イエスの誕生が歴史というか年代を決めています。つまり、BC、ADです。BCは英語ではBEFORE CHRIST・キリスト前を意味します。ADはAnno Domini・ラテン語・the year of Our Lordで、西暦・紀元を意味します。キリスト誕生を紀元元年としています。今はAD、BCを使わず、CEを使います。the Christian Era・キリスト紀元、西暦紀元です。あるいはCommon Eraとも言います。それは他宗教を尊重してです。

「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」とあります。ヘロデ大王の時代にイエスはベツレヘムに生まれたとされています。しかし、ヘロデは紀元前37年にユダヤの王になったヘロデは紀元前4年に死んでいます。天文学者たちの研究で、今日では紀元前7-6年をイエスの誕生と見ている人が多いです。ですから、紀元後の29-30年にイエスが十字架に付けられたとすると、イエスの生涯は大体37年位でしょう。イエスが伝道した期間・イエスの公生涯は最後の1-3年であろうと思われます。

クリスマスは神が計画し、実行したことといいます。聖書ではそれを預言と成就と言います。イエスが生まれるところも預言されていました。聖書はその場所は「ベツレヘム」だと言います。

普通クリスマスは誰のためかと言いますと、こんな答えが出ます。1.人間のため。2.世のため・世界のため。3.自分のためです。この3の答えが出来る人に、クリスマスの意味が出て来ます。しかし、よく見ると、クリスマスは神が必要としたものだと言うことです。神の側から見たクリスマスの意味です。人間の救いを見ますと、いつも神が先手を取っていると知るのです。私たちもそうです。イエスは言っています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)。

クリスマスは神のためとは?それは親と子供を考えると分かります。子供は親が何くれとしますと、いやがります。経験です。子供は、自分は自分なりにやっていると考えます。しかし、親がそうするのは「親の愛」と言えます。親の愛がそうさせるのです。それを五月蠅いと思うのですが、親は子供のためにしているのです。

これをクリスマスに適用します。神がひとり子イエス・キリストをこの世に送ることを決意し、実行したのは、そうせざるを得なかったのは、神がそうする情況が私たちの方にあったということです。「神の愛・こころ」がそうさせたのです。神は天より人間を見て、どうしても放っておけないので、イエス・キリストを、この世に遣わされたのです。神が放っておけないと考えたのは人間の罪でした。こんなことをというと奇妙に思うでしょうが、それは私たちが余り罪について考えないからです。たいしたことではないと思います。昔も今も変わりません。人間が罪を犯している、それを見ない振りをしているのが人間ですが、神は違います。神は罪の恐ろしさをよく知っているからです。ですから、神は手を差し伸べられたのです。それがクリスマスの出来事です。

マリアとヨセフは人口登録のために、ナザレからベツレヘムに向かいました。約140キロの旅です。二人はダビデの血筋のため、登録のために故郷の町・ダビデの町に行きました。ベツレヘムはダビデ王の生誕地で、ダビデはここで父の羊を飼い、預言者サムエルによって王として油を注がれています。(Ⅰサム16:13)。それ以来ベツレヘムは、「ダビデの町」(ルカ2:4,11)として知られるようになった。

町は混雑で、泊まるところはなかった。で、彼らは馬小屋を借りました。そこで、マリアはイエスを生むことになりました。多くの人は気がつきませんでしたが、その赤ちゃんイエスこそが神の子・メシア・救い主でした。

クリスマスの使信は単純です。神の子がおいでになったことによって、私たちはすぐ側に神がいつもいてくださるということが確信できるようになった。すぐ側にというと何ですから、どんな時でも、神が一緒にいてくださることを確信出来るようになったと言ってもいいのです。それをヨハネはこう言いました。「言・イエス・は肉となって・人間となって、わたしたちの間に宿られた・テントを張った」と。(1:14)。テントとは天幕を張ったということです。これは遊牧人・草原を移動して歩く民族・でないと理解が難しい。ユダヤ人はすぐ理解できました。エジプトから約束の地パレスチナにいく途中、彼らはテントを張っていました。移動式住居です。その中に特別なテントがありました。それは、神の住まいとしてのテント・天幕・「幕屋」(出40:1など)とも呼ばれていました。「彼らがわたしのために(幕屋)・聖所を造らされる第1の目的は、主がイスラエルの民の中に住むためでした。このことから、幕屋、わたしは彼らの中に住む」(出25:8)と主が言われるように、幕屋は「聖所」とも呼ばれています。で、旅の途中でも、そこに行けば神に会えると言うことです。つまり、いつも神が民と共に居るということです。

クリスマスは救い主の誕生日ですが、救いとは何でしょうか。宗教は救いを言います。いろんな救いがあります。困っているから助けるとか、人間の欲望を満たそうという信仰、いわゆる、御利益です。キリストはそんなことは言いません。確かにキリスト教にも、御利益はありますが。イエスとは天使が告げられたように「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。(マタイ1:21)。「罪」は神にとっても、人間にとっても放っておけないことです。前にも言いましたが。神は罪の恐ろしさをよく知っているからです。ですから、神は手を差し伸べられたのです。それがクリスマスの出来事です。

私はクリスマスは人間のあるべき姿、状態にすること、回復することだと思っています。旧約聖書の創世記は天地の神による創造を書いています。神は各創造の日の終わりに、「神はこれを見て、良しとされた」と言っています。英語では it was goodです。ヘブル語ではbAj-yKi(キー・トーブ)です。意味は「確かに よいです」。英語でCOSMOSというのがあります。意味は宇宙・調和・秩序です。調和とは美しい状態です。そこから、COSMETIC・化粧品がでました。ですから、ある先生は「美しい」と訳しました。神は六日目に創造のすべてを見て、「それは極めて良かった」と言いました。極めて美しかったです。でも、今はどうですか。その神の創造の美しさはありません。人間をとってもそうです。人間は美しいと言うより、汚れているのです。パウロはいみじく書いています。

「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。(エフェソ2:2-3)。

「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました」。

なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです」。(コロサイ1:21)。

パウロは結論します。「正しい者はいない。一人もいない」と。(ロマ3:10)。ですから、人間は調和のない状態にあります。つまり、罪に、悪魔、神に敵対し、神の怒りを受けるべき者でした。そんな状態から、神との調和・神との完全な交わりの状態の美しさを回復するために、クリスマスがあるのです。パウロはこう言います。「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです」。(エフェソ2:4-5)

年末になると、二つの鐘がなります。ヨーロッパに行った方が、日曜日の朝、町中の教会の鐘が一斉に鳴るそうです。それは至るところに神の救いが満ちあふれていることを語っているように感じると言いました。日本の年末の鐘は除夜の鐘です。大晦日にNHKのTVで有名なお寺の鐘の音を聞くことが出来ます。除夜の鐘は、夜中の12時に諸方の寺々で、百八煩悩を除去する意を寓して108回撞つく鐘を言います。百八煩悩とは人間の心身を迷わせる一〇八種の煩悩・一切の煩悩をいいます。

ある方が面白いことを言いました。お寺の鐘は“ゴーン”、「ゴーン」となる。教会の鐘は「カーン」、「カーン」となる。「ゴーン」は英語のgoneだ、教会の鐘はcanである。ゴーンは、(過ぎ)去った、過去の、いなくなって、見込みのない、尽きた、古くなったと言う意味である。響きは暗い。しかし、カーンは出来る、可能性がある、力がある、明るい響きがあります。ギリシャ語で「救い」は「変える」という意味があります。

私たちを・・心の定まらない私たちを・・造り変えようとされて、イエス・キリストをこの世に送り、十字架にあけられたのです。神はあなたを変えようとされているのです。

どうでしょうか。

羊飼いたちは「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」と書いてありました。私たちはどうでしょうか。今日、同じように「神をあがめ、賛美しながら」帰ることが出来るでしょうか。「崇める」とは何か。それは心からへりくだって、神を讃えると言うことです。「賛美」とは普通、ほめたたえると言います。しかし、ある先生によると、「賛美」は「神をなだめる」という意味があると言います。クリスマスに神を賛美するというのに、なだめるとはですが。ここにクリスマスの意味があるのです。クリスマスに生まれたイエスが、やがて、私たちのために十字架にかかります。そういう方が生まれたということがうれしいのです。分かると思います。うれしいことです。でも、考えたら、そのような方を送ってくださった神に対する感謝をして、罪を悔い改めて、神を崇め、賛美したい思いが沸くのではないでしょうか。

アーメン

12月
12

謙虚な女マリア

2010年12月19日 待降節第4主日
ルカによる福音書1章46〜55節
説教: 安藤 政泰 牧師

そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

ルカによる福音書1章46〜55節


ルカによる福音書に、私達はあの有名な二つの賛歌を読むことが出来ます。

1、マリヤの賛歌      1章46節~55節

2、シメオンの賛歌    2章29節~32節

今日の主日の主題はマリヤの賛歌ですがこの記事の前にありますエリザベツへの訪問から考えてみたいと思います。「主の母となることを告げられたマリヤは、親族でヨハネの母であるエルザベツを訪ねます」

この光景についてルターは 「マルヤは真実の生みの母たるべきものでありました。しかも彼女は、エリザベツのために、手伝い女の仕事をするよう、歩いて2日-3日の旅にでかけたのです。 私達は皆、自分達の誇りを、恥なければなりません。」ルターは聖母像を彼の食堂に掛けていた、といわれています。

それはマリヤを信仰者の代表として神に向かう姿と考えていたからです。

01:45  主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」エリザベツがマリアをその信仰の故に讃えたという事実です。この場面の中心は勿論その偉大さを讃えられたマリアにありますが、しかし、このマリアよりかなり年上のエリザベツが「しるし」となっています。それは マリアの信仰に確証を与えているのです。このことを更に強調しているのが、マリアがエリザベツの挨拶に答えるという形で、記述されている賛歌です。それは マリアの喜びにあふれる確信を表現しています。この冒頭が Magunificat anima mea Dominumとなっており、マグニフィカートと省略して使っています。

この賛歌はサムエル上2:1-10のハンナの賛歌によっています。

2:1 ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び/主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き/御救いを喜び祝う。

2:2 聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。2:3 驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神/人の行いが正されずに済むであろうか・・・と続いています

マリアの賛歌の内容は、はじめに、神が彼女に与えられた恵みの故に、神を讃えます。選ばれた民の救いのためになしたもう神の業の豊かさを讃ます。

神はマリアに、ご自身を救い主として示されたように、父祖達に与えられた約束を成就してくださいます。聖にして、憐れみ深い方である神が、その恵みを、真に全てを包むような仕方で自分に与えてくださったことを告白しています。

マリア自身、その恵みのために、卑しい道具となり、神が彼女をもちいられると言う事柄自体の背後に身を隠すのです。マリアに関する記事はこの誕生にだけ集中しています。この事が成就した現在は、旧約の側からみると、それは未来であるし、復活の後の時代からみると、過去のように感じられますが、決してそうではなく、イエスの誕生は現在の出来事であり、また未来の出来事でもあります。そうした意味でこのマリア賛歌は大きな意味があります。単に、マリアを信仰の先輩として敬うだけのものだとしたら、現在の教会にとりマグニフィカートはそれほどの意味が無いと考えます。成就した未来を現在として記されています。私達にとっての未来は、神が最終的に罪により人をこの世を破壊し裁くのではなく、人々の救いの成就の時となるのです。神は未来において、その全能をもって、登場し、時代と一切の物を排除されるのです。神が王として支配される終わりの時は、これまでの基準は完全に打ち砕かれ、これまでの価値観は消滅するのです。

最終目的はそうした価値観の破壊にあるのではなりません。むしろ救いが必要とされ、神の約束にしたがってそれを待つ全ての人々に本当に救いが到来するのです。私達がマリヤの賛歌を見るときに、そこに、一人の謙虚な女の人を見ることができます。彼女は決して自分を高くすることをしませんでした。 それどころかあくまでも謙虚に、神のかえりみを感謝してしかも賛美しているのです。クリスマスになると、いつもマリヤのことを考えます。ひとりの乙女が男の子を宿す、そしてその思いがけない出来事に驚き怪しむ、又、悩む。 しかし、かみの祝福であると知り、その現実をそのまま受け入れる、そこまでの、激しい感情の動きと、受け入れるまでになった信仰、 私達の悩み、怒り、悲しみ、はマリヤの経験から考えるとはるかに軽く凌ぎやすいのもではないでしょうか。マリヤを考える時、私達は自分の誇りを 恥ずかしい、と感じざるをえない。それはマリア自身、その恵みのために、卑しい道具となり、神が彼女をもちいられると言う事柄自体の背後に身を隠すのです。それが神の器となることです。

12月
12

ろばに乗る・・主イエス・・・

2010年11月28日 待降節第一主日

マタイによる福音書 21章1-11節

説教:五十嵐 誠牧師

◆エルサレムに迎えられる

21:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、21:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。21:3 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」21:4 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。21:5 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」21:6 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、21:7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。21:8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。21:9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」21:10 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。21:11 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安があるように  アーメン

ご承知と思いますが、今日から教会の暦が新しくなります。教会はイエスの生涯を巡って生活をしていますから、クリスマス、復活祭・イースター、聖霊降臨祭を中心に暦が作製されています。クリスマスを迎える準備が始まりです。クリスマスの四週間前が新らしい暦になります。

クリスマスはイエスの来臨を・・この地上への降臨・・来ることを三重の意味で考えます。過去、現在、未来の来臨です。Jesus came。 Jesus come。

Jesus shall come。クリスマスにイエスは来られた。イエスは来ている。イエスは来るだろう。この三つです。これは大切な事です。余り気が付かないのですが。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵と平安なあるように  アーメン

教会の暦はクリスマスを迎える準備をする季節に入りました。町中クリスマス的な雰囲気があります。教会のお株を奪ったようです。伝統的な習慣を守るところでは、準備をします。クリスマス‐ツリーをかざります。多くは樅もみの木です。クリスマス‐リース(リースは花輪の意) 蔓などを輪形に編み、ひいらぎの葉や松ぼっくりなどをつけたクリスマスの飾り。ドアや壁などに掛ける家があります。クリスマスクランツは花輪の周りに四本のローソクを立てて、毎週一本ずつ点灯して行きます。四本点灯の後の主日がクリスマスになります。

現在はクリスマスが盛んですが、最初はキリストの十字架と復活が重んじられました。それは教会の暦の最初から覚えられ、祝われて来ました。それに対してクリスマスは、教会はこれを覚えて礼拝をする、教会の暦の中で特別にこれを重んじることはありませんでした。クリスマスが祝われたのは四世紀からです。だから、クリスマスは四世紀にはじめて出来たと言うことではありません。というのは、マタイの福音書、ルカの福音書などは、明らかに紀元一世紀、70年代、80年代には成立していますが、そこにはイエスの誕生にまつわる様々なことがら、東方から来た博士、マリヤへの受胎告知などがあります。それらが福音書に書かれたのが、イエスの死後30年か40年後ですから、いえすの誕生にまつわる言い伝えは、ごく古い教会のから、口から口へと伝えられていたものが、マタイとルカによって書かれたと言えます。

従って、イエスの誕生は教会の歴史の中で、後になって、非常に重んじられ、祝われるようになりましたが、イエスの誕生の意味は、最初の時代においては、余りにも強烈な十字架と復活の光りに覆われていた、それが時代を経るにしたがって、正当な重みを評価されるようになったと言えます。で、クリスマスが盛大になったと言えます。

イエスの誕生の様々な言い伝えを見ると、二つの特徴があるようです。一つはイエスがかってのイスラエルにおいてもっとも偉大であったダビデ王の子孫であると言うことです。イスラエルの歴史においては、ダビデの王国は非常に大きな意味を持っていましたから、ダビデの王国が再び実現することがるとするならば、それはダビデの再来のような王よってであるという期待が強くありました。イエスがダビデの血統・血筋から生まれた方

であると言うことが強調されています。

二つ目の強調点はイエスは父ヨセフ、母マリアから生まれたが、イエスの誕生の背後に決定的に働いているのは、神の意志、配慮、計画、神の力であるという事です。聖書は

「聖霊」によってと言いますが、「聖霊」とは「神の力」です。神の力、非常に不思議な人間を超えた力によって、このイエスという方が誕生せしめられたのだ、それは人間の意志や、人間の可能性、人間の力の限界を超えたものだということです。それをイエスの誕生にまつわる言い伝えは強調していると言えます。

マリアや婚約者ヨセフがイエスの誕生で悩んでいますが、それは彼らのような人間・罪深く、醜い人間を通して・神の力が働くと言うことを受け入れ難かったからです。それを彼らの言葉、祈りが示しているのです。でも、彼らは惑い、恐れ、疑いながらも、最後には神の意志に従っていく、そして神の御心、計画を受け入れていくのです。それを見ることが、クリスマスのポイントでもあります。

今朝は、今述べた二つの特色のはじめの、第一の意味を伝えています。イエスのエルサレム入城です。「入場」(単に会場・式場・競技場などにはいること)ではなく、「入城」(王として、征服者として城に入ること)です。イエスのエルサレム入城として知られているところです。このところは教会暦ではイエスの最後の週の「受難週」のはじめの日曜日に読まれます。やはりイエスがエルサレムに入る場面です。本来はこれが正しいのですが、それが「降臨節第一主日」に読まれるのは、クリスマスに生まれたイエスは王であり、その王を迎える意味で読まれます。それは旧約聖書の預言書ゼカリヤ書に見られます。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って」。(9:9)。*「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」。

あなたの王がくる・・・それがクリスマスの意味です。喜んで迎えよう!です。ちなみにクリスマスは三重のイエスの意味を考えると言います。1は王としてのイエス。2は預言者としてのイエス。3は祭司としてのイエスです。イエスは洗礼を受けたとき、この三重の務めに任命されたと理解されています。旧約の預言者は神の言葉を語りました。同じく、預言者としてイエスはかみの言葉を語りました。旧約時代の祭司は「生け贄」を備えて、民のために仲介をしましたが、祭司としてのイエスは牡牛や羊ではなく、ご自身を神に対する「生け贄」として捧げられました。1の王としての今日の所です。

当時の民衆は誤てるメシア待望がありました。イエスは神の国を述べ伝えました。それは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした。「その評判が周りの地方一帯に広まった、イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」。イエスの神の国運動は民衆に強烈な衝撃と喜びをあたえました。特にそれが眼に見える形で・・癒しの奇跡という活動によって、また権威ある新しい教え(マルコ1:27平行)という言葉によって媒介されたために、イエスが伝えようとした神の国の到来とは異なった意味で理解されました。民衆の素朴な、しかし根強い神の国待望・メシア待望に結びつけられて行くという結果になりました。マルコの福音書の同じにゅうじょうで民衆は「我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように、いと高きところにホサナ」(ホサナとは今救い給えですが、万歳!です)(11:10)とありますのは、やはり人々が地上王国を期待していた事を表しています。(ヨハネは書いています。「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」。イエスが「山に退かれた」とは地上の王としての考えを否定した事です。

イエスが意味した神の国とは何でしょうか。イエスの奇跡や癒しは神の赦し、神のに愛のしるし、神の支配実現の目に見えるしるし似すぎなかったのです。民衆は目に見えるも

のとしてとられ、目に見えるものに重きを置くという人間のから、イエスを奇跡を行う人して、天使の大群を天から率いてきて、ローマ帝国を滅ぼしてくれるのではないか、宗教的な人物が軍事的・政治的のも指導性を発揮して、かってのダビデ王国のような栄華をもたらしてくれるのではないか、そう言う意味でのメシア期待をイエスに当てはめて、押しつけようとしたのです。ですから、その期待が無く、失望した民衆は。また、一旦イエスを受け入れた人たちも、イエスを離れていったし、最後にはイエスを死に追いやったのです。ではイエスのいう「時は充ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」とは何か。それは「一方的な罪の赦しの宣言・招きを喜んで受け入れなさい」という事なのです。その招待状を受け入れる人には神の国は開かれており、受け入れない人には閉ざされたままで残るのです。

イエスのエルサレム入城をよく見ると、イエスは民衆が期待した王でないことが分かるのです。預言者ゼカリヤはイスラエルの救いを予言します。エルサレムに神に従う「王が来る」と言うのですが、この王の特徴を「ロバに乗ってくる」と言いました。当時は王は馬に乗って来るのが普通でした。王がロバに乗って来るということでゼカリヤは特別な性格を示しています。「柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」です。「柔和な方」と言います。ヘブル語の「高ぶる」をギリシャ語は「柔和」と訳しまし

た。(ヘブル語ynI[‘ ・アニ)、ギリシャ語ではprau?”(プラユス)。意味は「柔和」から受ける感じと違って、本来は腰をかがめた姿勢を表しました。押しつぶされ、虐げられて苦しんでいる様子、また、進んで自分を低くする(へりくだる)という意味になります。

馬に乗るのが、富や権威の象徴であれば、ロバに乗るのは貧しさとへりくだりの象徴です。

私たちはイエスを「素朴で、柔和で人」という感じを持ちますが、「柔和」は重荷を負って背中が曲がる様子を示すとすると、そこに見えるのは「苦しんでいる人々の苦難のすべてをその背に担え耐える姿、そしてそれによって、すべての人を解放する力を発揮するメシアとしてのイエスの姿なのです。今の私たちは理解できます。そう理解したら、歓呼の声を上げて、イエスを歓迎できるでしょう。その日が今日でもあるのです。

また、ロバは平和のシンボルでした。軍馬と戦車は戦争の乗り物ですが、ロバは平和の乗り物です。

クリスマスになると私はパウロの言葉を思います。それはコリントⅡ・8:9節です。

「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。クリスマスは正にこのことが起きた日です。

イエスは私たちを豊かにするために貧しくなられたと言います。少し分かりにくいので、同じ事を言っているパウロの言葉を見ます。フィリピ2:6以下です。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです」。

キリストは豊かで有るのに・・神の身分であり、等しい者であるのに、貧しく・・人間の姿をとり、宿屋ではなく、馬小屋で生まれ、苦難の生涯をおくり、十字架上で死ぬほどに低くなりました。しかし、それは私たちがを豊かにするためだというのです。豊かとは素晴らしい恵みを受けると言うこと、受けたと言うことです。考えてみましょう。私たちは貧しい者でした。私たちは神の前では罪深く、汚れに充ちた者でした。今、私たちは救われて、神の子として愛を受けています。そして、新しい命、永遠の命と復活の約束を頂いています。それは何ものにもまして、素晴らしい事です。ヤコブは書いています。「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」。

ですから、パウロはクリスマスを「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」と言っているのです。(テトス2:11)。

イエスは王ですが、それは人々を支配し、専制的に振るまい、戦争で勝利を得る王ではなく、貧しく、へりくだり、人々に仕え、人々に平和をもたらす王なのです。また、罪と死と悪魔の力から、私たちを解放した王なのです。

この王の元で生きたいと思います。                     アーメン

11月
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