復活宣言

2011年4月24日 復活祭
マタイによる福音書28章1〜10節
説教:高野 公雄 牧師

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

マタイによる福音書28章1〜10節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

皆さま、復活祭おめでとうございます。皆さまと共に、主のご復活をお祝いできることをうれしく思います。

きょうの福音は、《さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に》と、始まります。

古代のユダヤの暦では、今のように時計の上でしか分からない深夜の午前0時で一日が区切られていたのではなく、日没を一日の区切りにしていました。日没でその日が終わり、次の日が始まります。ですから、土曜日の「安息日」は、今で言えば、金曜日の日没から土曜日の日没までのこととなります。イエスさまが週の初めの日に復活なさったというのは、今で言えば、土曜日の日没後から日曜日の明け方となります。それで、伝統を大事に守る教会では、土曜の深夜というか日曜の始まりの午前0時に、復活の徹夜祭を行います。それが復活祭の主たる礼拝となるのであって、通常の午前10時とか11時に始まる礼拝は主たる礼拝とはされません。私たちの教会の伝統でも、復活祭には必ず早天礼拝とか早朝礼拝と言って、日曜の朝早く野外に集まってイエスさまのご復活を祝っていました。

《さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った》。

二人の女の弟子たちは、日曜の夜明け前に墓を見に行きます。土曜日は安息日で、遠出を禁じられていたからです。彼女らは安息日が終わるのを待ちかねて、日が日曜日に変わると、つまり週の初めの日になると、まだ暗いうちに墓に来ます。すると、ちょうどその時に大きな地震が起こって、主の天使が現われ、墓をふさいでいた石を取りのけてくれます。天使はその石の上に座って、彼女らに伝言します。地震は午後3時にイエスさまが息を引き取られたときにも起こっています(27章52)。地震や天使といった一連の出来事は、そこに神さまの力が働いていることを現しています。5節以下の天使のことばは、まさに神さまご自身のことばとして聞かれるべきことを示しています。

《天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。・・・」》。

イエスさまは、復活なさったのです。ユダヤ人指導者は、ピラトに願って、墓石に封印をし、見張りを墓に立てていました(27章62~66)。彼らはイエスさまを処刑するだけでは足りず、手立てを尽くしてイエスさまの運動を封じ込めようとしました。しかし、その努力も空しく、神はイエスさまを墓から解放したのです。

お墓参りに来たこの女性たちは、《マグダラのマリアともう一人のマリア》だといいます。この女性たちは、イエスさまが十字架に掛けられた姿を見守っていました(27章55~56)。また、お墓に葬られるのも見守っています(27章59~61)。男の弟子たちが逃げ去ったあとも、最後まで女性たちがイエスさまに着いていた姿は印象的です。

二千年前、女性は証人としての法的資格が認められていませんでした。ですから、ここで女性たちが復活の最初の証人として報告されていますが、法的にはこの人たちの証言は無効です。ところが、教会ではいつでもどこでも女性たちは神の力の証人として欠かせない存在でした。だからこそ、この物語は教会に大いに愛されてきたのです。

復活したイエスさまと出会った弟子たちの話は、二千年前の一回限りの出来事というだけでなく、今も私たちの間で起こっているイエスさまとの出会いの物語として読むことができます。

地震と天使の出現によって、見張りをしていた番兵たちは《恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった》と書かれていますが、二人の女性たちも同じだったようです。天使は女性たちに《恐れることはない》と語りかけますが、「恐れているのを止めなさい」という意味です。女性たちは恐れていたのです。「イエスさまは復活なさった」という天使の言葉を聞いた女性たちは、《恐れながらも大いに喜び》ました。恐れと喜びが併存している状態でしたが、女性たちは天使の言葉を信じ、その指示に従って弟子たちに知らせに行きます。信じて従う彼女たちにイエスさまは自らを現します。イエスさまが行く手に立っていて、この女性たちに《おはよう》と声をかけます。

話しの流れから離れますが、ここでちょっと注釈を入れます。「おはよう」と訳された言葉は、新約聖書の言葉ギリシア語では「カイレテ」です。これは、直訳すると「あなたがたは喜びなさい」という意味ですが、「喜べ」はふつうのギリシア語の挨拶の言葉でして、「おはよう」でも「こんにちは」でも「さようなら」でも、ギリシア語では「喜べ」が使われます。ですから、新共同訳聖書では「おはよう」という日本語に訳されています。岩波書店版では、ここは原語の意味をとって「喜びあれ」と訳されています。私たちが以前に使っていた口語訳聖書では「平安あれ」です。これは、イエスさまは女性たちに自分の国の言葉で話しかけたと考えられますから、そうすると「シャローム」と言ったはずです。ヘブライ語「シャローム」は訳せば「平和」または「平安」です。

さて、話しを元に戻します。復活のイエスさまと出会うことによって、彼女たちは本当に恐れから解放されます。「恐れ」が「喜び」に変えられる出来事、それが復活の体験だと言えるでしょう。

ところで、天使の指示とイエスさまの指示は同じ内容ですが、注目すべき違いがあります。それは、天使は《急いで行って弟子たちにこう告げなさい》と、「弟子たち」と言っているところで、イエスさまは「わたしの兄弟たち」と言いるのです。《行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる》

《イエスを見捨てて逃げてしまった》(26章56)弟子たち、《そんな人は知らない》とイエスさまを否認したペトロ(26章69~75)のことを、イエスさまは《わたしの兄弟たち》と言います。復活の主は、慈悲深くも彼らを赦し、「弟子」以上に固い絆で結ばれた者として、ご自分の親密な「兄」弟として受け入れることを表しています。先ほどは、女弟子たちにとって、復活は「恐れ」から「喜び」へと変えられる出来事と言いましたが、男の弟子たちにとっては、復活は「悔恨と絶望」から「再起と希望」へと変えられる出来事であったと言えると思います。

復活は、言葉で書き尽くすことができない、説明のできない出来事です。神さまだけが信頼できる方であるがゆえに、私たちは信じることができるのです。

復活祭の出来事は、聖金曜日の出来事についての神さまの注釈と見ることができます。聖金曜日にイエスさまは《エリ・エリ・レマ・サバクタニ。わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》

と問うていますが、復活は十字架に対する神さまの側の答えだと受け取るべき事柄です。十字架にかけられたメシアのよみがえりです。十字架によってイエスさまがメシアであることが無効にされたように見えるけれども、復活がイエスさまがメシアであることを確証しているのです。十字架は神さまの救いの歴史の中心的な出来事として解釈できるのです。それゆえにこそ、弟子たちはイエスさまの死を悲劇ではなく、勝利として理解したのです。

復活のイエスさまは今も、私たちと共にいて、私たちの歩みを支え、導いてくださいます。「恐れ」を「喜び」へと、「絶望」を「希望」へと変えてくださいます。主はよみがえられた。ハレルヤ。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

4月
4

明日の生命の心配は無用

2010年11月21日 聖霊降臨後最終主日

ルカによる福音書21章5〜19節

説教:安藤 政泰 牧師

ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石 も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こ るときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と か、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっている が、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や 疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡 し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決 めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで 裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくなら ない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」


私達にとって終末について考える事はなかなか難しい事のように感じます。

それは、自分の今の問題として考えにくい、と言う点があるからです。

21:06  「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」

さてキリストの6節の言葉は、紀元70年に起こったエルサレム神殿の崩壊の予告とされています。それまではエルサレムに神殿を持ち、ユダヤ人社会、 国家を曲がりなりにも形勢していましたが、神殿の崩壊と共に国家も崩壊していくのです。その後約2000年の後にイスラエル共和国が誕生する事はよくご存 じの事です。

しかしこのイエス・キリストの予言は単に、エルサレム神殿の崩壊だけを述べているのでは在りません。そうではなく、終末の前兆とその危険のなかで、 それは現在も継続しているが、総てのクリスチャンへの警告と祝福なのです。

それでは、具体的に私達はどのように終末を自分の生活の中で考え受け止めているでしょうか。私達の姉妹教会であるアメリカのミズリー派ルーテル教会 の一部の人達は決して、火葬に伏す事を良しとしません。それは、蘇りの時に自分の戻る身体の事を考えるからです。葬る時は、足を十字架の根元に向けていた します。それは、蘇りの時に十字架を見上げるようにな姿勢になる事を意図してのことです。

私達はこの事の善悪を論じる必要はありません。しかし、甚だ具体的に自分達の問題として、身体の蘇りを考えて居る、と言うことには注目する必要があ ります。礼拝毎に告白する私達の使徒信条では、その最後の条項で「我は聖霊を信ず。また聖なるキリスト教会・聖徒の交わり、罪のゆるし、身体のよみがえ り、限りなきいのちを信ず」と言っています。この、信条は単なる題目ではありません。私達が告白する内容がどのように自分自身の中で具体的になっている か、が問われるはずです。

21:07  そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」

7節の弟子の質問、「終末の前兆について」は誰でも関心を持っています。聖書によれば、偽キリストの出現、戦争、暴動、大地震、疫病、飢餓、天地異 変があると言っています。

私達の世界を考えると、聖書で述べている終末の前兆は起こり続けて居るように思えます。中東では利害関係とイデオロギーを交えた、宗教戦争が起こっ ている、と言ってよいでしょう。テロ活動が今でも続発し、子供達の間では生命に付いての価値観が混乱し、いじめなどが起こっています。

気候の不順は作物に影響を与え、深刻な食糧問題ともなってきています。

このような事はいつの時代にも起こったはずです。ただ現代は情報がよく伝わるので世界の出来事がまるで自分の出来事のように感じてしまうということ でしょう。

紀元51年ごろすでに偽の終末についての情報が流されています。(第2テサロニケ2章2節)

私達は偽の、みせかけのものに惑わされてはなりません。キリスト教と言う名のもとに、キリスト教でないものがそれらしく振る舞っています。

終末、再臨の前兆、といったものは、私達人間が自分勝手にそのように解釈してでっち上げているものが大部分です。その前兆は、終末や再臨の本質的意 味から考えるとほんの枝葉の事です。そのような前兆に惑わされて主イエス・キリストから離れてしまう事、に警告を発しているのです。

変わった何かに、新しい何かに飛び付くのではなく、今の与えられた自分の場所で、自分の信仰をよく見詰めて行くことが大切です。

「21:19  忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

19節、自分勝手にその前兆を解釈せず、主の約束を信じて耐え忍ぶ事が勧められています。それは又、今日の生活を大切にする事が、具体的には主の再 臨に備える事でもあります。それは16~18節 たとえ肉体は殺されても、「しかし、あなたがたの髪の毛ひとすじも失われる事はない」ほど私達の魂の平安は必ず守られる、と言う約束があるからです。

先の事を心配のあまり、色々労して元のものをなくしてします、そのような誘惑に強く立ち向かいたい。

11月
11

不信仰物語 ― 新しく生まれた者のように(Quasimodogeniti) ―

2009年4月19日 復活後第2主日

マルコ16章9節-18節

説教: 大和 淳 師

週の初めの日の朝早く、イエスは復活してから、まずマグダ ラのマリヤにご自身を現された.イエスはかつて彼女から、七つの悪鬼を追い出され たことがある。彼女は、イエスと一緒にいた人たちが、悲しんで泣いている 所に行って、報告した。その人たちは、イエスは生きておられ、そのイ エスをマリヤが見た、と聞いても信じなかった。これらの事の後、彼らのうちの二人が、村へ入ろうとして歩いていると、イエスは 別の姿でご自身を現された。 その人たちは行って、残りの人たちに報告した.しかし、彼らも信じなかった。その後、十一人が食卓に着いていた時、イエスはご 自身を現された.そして彼は、彼らの不信仰と心のかたくなさを、おしかりになった.それは、復活し た後のイエスを見た人たちを、信じなかったからである。イエスは彼らに言われた、「全世界に行って、すべての造ら れたものに福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマされる者は救われる.しかし、信じない者は罪に定められる。信じる者には次のようなしるしが伴う.彼らはわたしの名の中で悪鬼を追い出し、新しい言葉を語り、蛇をつかむ.死に至る物を飲んだとしても、それは決して彼らを害さない.彼らが病人に手を置け ば、病人はいやされる」。


キリスト教会の古い伝統に、イースターからペン テコステ、聖霊降臨日までの毎週の日曜日に名前を付けて呼ぶ習慣があります。復活後第一主日の今日は、「新しく生まれた者のように (Quasimodogeniti)」の主日、そして来週第二主日は「主の慈しみ(Misericordias Domini)」の主日、その後、「喜べ(jubilate)」の主日、「歌え(cantate)」の主日、「祈れ(rogate)」の主日、そして昇天 主日を経て、「主よ聴き給えの主日(Excaudi)」、そうして「ペンテコステ・聖霊降臨日」を迎えるのです。

人は大切なものは名前を付けて呼びます。子どもは自分の気に入った、毎晩一緒に寝る友だちとなった人形に、まず最初に名前を付けてあげるでしょう。あるい は、以前、俵真智さんの「あなたがおいしいと言ったから今日はサラダ記念日」という俳句が有名になりましたが、人は特別な日に、特別な名前を付けてその日 を覚えます。そのように、イースター後の最初の日曜日、それは「新しく生まれた者のように(Quasimodogeniti)」の主日と教会は覚えたので す。

キリストの復活、その信仰、それは何より新しく生まれた子どものように生きることなのです。「生まれたばかりの乳飲み子のように」(一 ペトロ2:2)生きる、でもそれはどういうことでしょうか?デートリッヒ・ボンヘッファーは、そのことを、こんな言葉で教えています。「キリストの復活の 奇跡は、[今この世にある]わたしたちを支配している死の神格化[絶対化すること]を根底から覆すものである。死が最後のものであるところでは、現世のこ の生をすべてとするか、それとも現世をまったく空しいものとするか、そのどちらかでしかない。しかし、死の力が打ち破られたこと、つまり、死が支配するこ の世界の真中にすでに復活と新しく生まれる奇跡が輝いていることが受け入れられるところでは、人はもはや人生に永遠を期待することなどをしない。むしろ、 人生がわたしたちに差し出すものを受け取るのである。そこでは、人生がすべてか、それとも無か、というような生き方ではなく、良いことも悪いことも、大切 なことも取るに足らないことも、喜びも痛みも受け止めていく生き方が生まれるのである」(D.ボンヘッファー「倫理学」より)。

わたしたちは先週イースターを共に祝いました。共に礼拝を守り、祝いのときを共にしました。でもその祝いで終わったのではないので す。また「新しく生まれた者のように」生きる生活が始まっているのです。この普段の変わることのない生活、その生活が「わたしたちに差し出すものを受け 取」っていく。「そこでは、現世のこの人生がすべてか、それとも無か、というような生き方ではなく、良いことも悪いことも、大切なことも取るに足らないこ とも、喜びも痛みも受け止めていく」生を生きるのです。復活、それは、キリストがわたしたちの生活の中へ踏み込んでこられることだからです。復活とは、た だ単にキリストが死んで、再びよみがえったことだけを意味するのではないのです。わたしたちがこのキリストによって新たに生きる、わたしたちの復活、わた したちの始まりなのです。

そのことが、今日の福音書においても具体的に記されています。それで、あらためて、少し注意深く読みますと、復活後の出来事が一見大雑把に記されているよ うに見えるのですが、そこにも大切な意味が込められていることに気づきます。

まず、マグダラのマリヤ、そして、12節の無名の二人の弟子、これらの人々にイエスは現れたということ。そのような人々、マグダラのマリヤ、彼女はルカ福 音書7章によれば「罪ある女」と呼ばれた人でした。そして、この名も無き二人の弟子、つまりペトロやヨハネのような主だった弟子たちではなく、無名の人の 口を通して、まず復活の使信は伝えられたのだということ。罪深いもの、弱い者、軽んじられている者、主はそのような人々に現れた、共におられた。それが何 より復活のキリストであったことが伝えられています。

しかし更に、もっとわたしたちの目を引くことがあります。実に繰り返し、「信じなかった」という言葉が出てくることです。それは言ってみれば、イエスの復 活を決して信じなかった、信じられなかった物語なのです。そして、何と言っても驚くのは、最後まで弟子たちの内誰一人「信じた」とは記されていないことで す。これらのことから言えば、弟子たちは誰一人結局、信ずることの出来なかったまま、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と 遣わされていったのです。しかし、それが、聖書がわたしどもに伝える復活信仰、復活体験なのです。

何より復活のキリスト、この方は、いつも信じない者の中心におられます。復活のキリストは、信じる者、敬虔な者たちの間にだけおられ るというのではない。罪ある者、信じない、心のかたくなな人間の友、その中心となられたのです。復活信仰とは信じられない者の信仰なのです。何故なら、復 活のキリストは、十字架のキリスト、十字架にかかったキリストだからです。この方の十字架、それは、まさしく信じない人間、それどころか、この方に敵対す る人間、その真ん中にこの方が、その罪を担って立たれた出来事でした。まさに、ご自身、信じない人間の中の一人、その中心となり給うたのです。

この聖書の箇所は、実はそのように信じなかった物語を記すことによって、信じられない者である自分自身への痛みと共に、しかし、この 復活のキリストは、そのわたしを決して見捨てないのだという、初代の教会の人々の喜びに満ちた体験、深い溢れる感謝の思いが込められた信仰告白でもあるの です。われわれは信じなかった。信ずることのできないものであった。しかし、主はあらわれた、その信じないわたしどものために・・・、そう聖書は語ってい るのです。

もちろん、不信仰がいいということではありません。その後、こういうことも記されているからです。「その後、十一人が食事をしている とき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」(14節)。イエ スは、不信仰と頑なな心をおとがめになった、この「おとがめになった」というのは、要するに叱られたということです。叱るのは見限った、見捨てたからでは ありません。むしろ、これは端的に愛です。不信仰を受け止めつつ、その不信仰を克服されようとする愛です。親が子どもの成長のために、今し得る限りのこと に全力を尽くしてなすような真剣な愛であると言っていいでしょう。

もちろん、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」、そういう言葉もここには記されています。そし て、わたしたちは、そのことを厳粛にそのまま受け入れるべきであり、決して割り引いたり、軽んじたりしてはならないでしょう。しかし、そうだからこそ、こ のキリストは、わたしたちのために、真剣に、不信仰を叱って下さるのです。何より、そのためにこの方は十字架にかかり給うたのです。それは、全くわたした ちの不信仰の故にということです。それをご自分のものとし、ご自分に担い、わたしに代って戦い、克服されるため、わたしたちが一人も滅びないためでした。 それは確かにそれほどに、わたしたちの不信仰は絶望的なものだということです。しかし、叱ってくださる主イエスがおられるからこそ、わたしたちには希望が あるのです。

ですから、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」(16節)、この言葉も、わたしたちは、いわば脅しのように受け取る必 要はないのです。こんな信ずることの出来ないわたしは滅びの宣告を受けるかも知れないとびくびくしながら生きるのではない、あるいは、だから抱えた罪を、 それを隠して生きるのではないのです。主はその全てを既にご存じであり、しかし、それに関わらず、何より、ここに先立ってあるのは、わたしたちへの救いの 約束、このお方を通しての愛なのです。何より、滅びの宣告より先立って、救い、恵み、今この方の叱責・愛が、主ご自身がわたしたちにはあるのです。ただこ の主に目を注ぐ、「新しく生まれた者のように」ただこの主に目を注ぐ、それがわたしたちのイースターの信仰なのです。

そして、ここでは、そのことと直ぐに並んで、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(15節)と言う主イエスの命令が記されて います。福音を宣べ伝える、伝道、宣教が命じられています。わたしたちは、この命令もまた厳粛にそのまま受け入れるべきでしょう。しかし、わたしたちは、 この伝道、宣教とは、いわば他の人を信仰者に変えるようなことではないということをここでしっかりと心に留めておきたいと思うのです。つまり、伝道とは、 あたかも確かな信仰の持ち主、いわば救われた確かな者が、別の確かではない、信じていない人間を上から下へと救ってやると言うようなことではないのです。 主は、信じない弟子たちをあるがままに伝道へと遣わされたように、あるがままのわたしを見てくださり、そして恵み深くわたしたちを用いてくださる、遣わし てくださるのです。もう一度、最初にご紹介したボンヘッファーの言葉を思い起こして欲しいのです、「人生がすべてか、それとも無か、というような生き方で はなく、良いことも悪いことも、大切なことも取るに足らないことも、喜びも痛みも受け止めていく生き方が生まれる」。それを、伝道ということに置き換えて 言ってもいいでしょう。つまり、伝道とは、人生がすべてか、それとも無か、というようなことではなく、良いことも悪いことも、大切なことも取るに足らない ことも、喜びも痛みも受け止めていく生き方、そこから生まれるのです。

良いことも悪いことも、大切なことも取るに足らないことも、喜びも痛みも受け止めていく生き方 ― それは言い換えれば、「あなたは、あたかも罪がないかのように、自分自身とあなたの兄弟とをあざむく必要はもはやない。あなたは罪人であることを許され る。そのことを神に感謝せよ。何故なら、神は罪人を愛し、罪を憎み給う方だから」(D.ボンヘッファー「共に生きる生活」111頁)ということなのです。 実は、これもボンヘッファーの「共に生きる生活」の文章からの言葉です。そこでボンヘッファーは、またこういうことを言っております、「自分の悪を抱いて ただひとりでいる者は、全くひとりで孤立している。キリスト者が、礼拝を共にし、祈りを共にし、またともに奉仕することにおいてあらゆる交わりを共にして いるにもかかわらず、互いにひとり孤立しており、交わりの最後の通路が開かれていないということがありえるのである。何故なら、かれらはそこで、なるほど 信仰者として、敬虔な者としてはお互いに交わりをもっているが、しかし敬虔でない者として、罪人としての交わりを持っていないからである。敬虔な者の交わ りの中では、何人も罪人であることは許されない。突然に現実の罪人が、敬虔な者たちの中に見出される時、多くのキリスト者の驚きは思いの外に大きいものが ある。だからわれわれは、自分の罪を持ったままで、偽りと偽善の中に自分を閉じてひとりでいるのである。何故なら、われわれは確かに罪人だか ら・・・」(〃110頁)。

つまり、教会は、ややもすると、敬虔な者の交わり、正しい者の交わり、つまり、過つ者、破れたる者であることを許されなくなってしまうのだ、ということで す。教会で、自分の罪の故に孤独でいることほど、この復活のキリストの真のお姿に相応しくないのです。そして、自分の罪を、自分ひとりでは克服し得ないの です。だから、わたしたちは、教会、他の兄弟姉妹が必要なのです。その中にキリストはおられからです。問題・罪のないキリスト者がキリスト者なのでありま せん。あるいは、問題のない教会が良い教会なのでありません。そして、罪に立派な罪もそうでない罪もないように、問題に立派な問題も、立派でない問題もな いのです。教会が教会であるのは、共に重荷を、問題を担っていけること、あるがままのわたしを共に担ってくれる兄弟姉妹がいることです。ここに、「新しく 生まれた者のように(Quasimodogeniti)」ある教会があります。「良いことも悪いことも、大切なことも取るに足らないことも、喜びも痛みも 受け止めて」いく、わたしたちの教会が。

そのような教会の中にある者として、「新しく生まれた者のように(Quasimodogeniti)」主と共に歩んでいきましょう。


六本木教会の礼拝にいらっしゃいませんか。 毎週日曜日の午前11時から行われています。教会は営団日比谷線六本木駅から徒歩約10分のところにあります。

4月
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夕方になると ~命の始まり~

2009年4月10日(金) 受苦日礼拝

マタイ福音書27章57-61節

説教: 大和 淳 師

夕方になって、ヨセフという名の裕福な人が、アリマタヤから来た.彼自身も、イエスの弟子となっていた。 この人はピラトの所に来て、イエスの体を引き渡してくれるように求めた。そこでピラトは、それを彼に渡すように命じた。 ヨセフはその体を取って、きれいな細糸の亜麻布に包んだ。 彼はそれを、岩の中に掘った自分の新しい墓に納めた。そして墓の入り口に大きな石を転がして、立ち去った。 マグダラのマリヤともう一人のマリヤは、そこにいて、墓のほうを向いて座っていた。


主イエスが十字架につけられて処刑されたのは金曜日、午後3時頃のことと伝えられています。ユダヤ人の一日の数え方は、現在でもそうですが、夕方の日没から始まって翌日の日没までを一日と数えますので、ユダヤの人々の安息日、それは土曜日ですが、イエスが十字架で息を引き取った金曜日の 日没から始まるわけです。そして、その安息日には一切の労働が厳しく禁じられていますので、死体を清め、埋葬するといった作業は当然、日が沈むまでの残されたわずかな時間で早急に事を運ばなくてはなりませんでした。福音書が「夕方になると」(57節)と記しているのは、もう残る時間がごくわずかになったので、何と か急がなくてはならない、そうした差し迫った状況であったことを物語っています。

また当時のローマの法律によれば、処刑された死刑囚の遺体は親族が自費で引き取って埋葬することになっていたのですが、引取人がいない場合には、そのま ま放置され、野犬や烏などが喰い散らすままにされたそうです。それから言えば、イエスの場合、遺体を引き取ろうにも、イエスの身内、母マリアはそもそもガ リラヤの住人でしたし、貧しい彼女がエルサレムに墓をもっているわけがありません。頼りの男の弟子たちは既に逃げ去ってしまっていました。つまり、時間的 にも物理的にも主イエスの葬りはあり得ない、不可能な事態であったのです。

しかし、その時、そのような緊急な状況のなかに登場して重要な役割を果たしたのが、これまで一度も福音書に登場してこなかったこのアリマタヤ出身のヨセ フという人です。このヨセフは、わざわざ「金持ち」(27:57)であったと紹介されていますから、エルサレムに墓をもっていておかしくない人物だったのです。

またこのヨセフについて、マタイはそこで「この人もイエスの弟子であった」(27:57)と紹介していますが、ヨハネ福音書は更に彼が「イエスの弟子で ありながら、ユダヤ人たちを恐れてそのことを隠していた」(19:38)と記しています。つまり、それに従えば、イエスの埋葬といういわば緊急事態になっ て、彼は自分がイエスの弟子であることが公になってもよいと決断し、「イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た」ということでしょう。しかし、十字架 で処刑された人の遺体を引き取ろうとすることには、そう簡単なことではないはずです。マルコ福音書はそこで「勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの 遺体を渡してくれるようにと願い出た」(15:43)と、「勇気を出して」と記しています。犯罪人として処刑されたイエスの遺体を引き取って埋葬しようと する、しかも彼はイエスの身内でもないのですから、それによって当局や自分の周りの人々からどんな目で見られことになるか。ましてや、大変な有力者であっ たアリマタヤのヨセフです。彼は金持ちで、またマルコやルカによれば議員、すなわちイエスに敵対したユダヤの最高法院の一員であったからこそ、なおさら関 わりあいになることは勇気のいることであったでしょう。それにもかかわらず、たとえ、どんなにか不利な事になったとしても、ヨセフは、ピラトのもとに出頭 して、遺体の引き渡しを願い出たと言うのです。イエスの埋葬は、このヨセフという一人の人のそのような信仰告日の行為によって行われた、全く彼なしにはで きなかった、そのことを思うわけです。

そうして、「ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。」こ こでも、わたしたちは細やかに聖書が語っていることに注意しましょう。彼は亜麻布を買ってきたというのです。つまり、あらかじめ用意していたというのでは なかった。つまり、彼の決心は、全く、このイエスの十字架以前にはなかったのです。まさに、このキリストの十字架、イエスの死によって彼が変化したことで あることを聖書は告げているのです。ヨセフの信仰は十字架によって始まったのです。恐らく、ヨセフはイエスの遺体の引取りを願い出た後、もう閉まりかけて いた商店に大急ぎで走って行き、亜麻布を買ってきたのでしょう。そうして急いで人を雇い、イエスの遺体を自分の墓に運び、亜麻布を巻き・・・、それら一つ ひとつの作業をしながら、ヨセフは何を思っていたのでしょうか。恐らく何も考える余裕もなかったかも知れません。ただ日没までに葬りを済ませる、そのと き、それだけが念頭にあったでしょう。そうして、「岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去っ た。」(27:60)彼は、それで役目を終えたかのように立ち去ったのです。もはや、何もなし得ないかのように。

しかし、それで全てが終わったのではなかった。十字架がヨセフの新しい人生の始まりとなっているからです。もちろん、ヨセフはまだそのことを知りませ ん。そのとき、そこにいた人間は誰も知りません。むしろ、彼らは、これで全てが終わった、終わってしまった、そう思っていたことでしょう。ある者は深い悲 しみの中で、ある者は絶望の中で、このヨセフが「立ち去った」のも、もしかしたら、イエスを葬った満足感ではなく、何故、もっと早くこの方の手助けをしな かったのだろう、財を持ち、議員である自分のできることがもっとあったのに、そう自責の念にかられていたかも知れません。ましてや、この彼の行動はこれま での人生の全てを失うようなことなのです。彼は自分の人生が無駄であったかのようにそこを立ち去ったのかも知れません。しかし、神の望み給うこと、なさる ことはそうではなかったのです。そして、それゆえ、全てが終わったのではありません。

ともかく、マタイに限らず、どの福音書も死刑囚として十字架につけられて処刑されたイエスが、時間がなかったにもかかわらず、そのまま放置されず、墓に 葬られたことをこのように丹念に語っているのですが、それは実に全く大変なことが既に密かに起きていることを物語っているのです。

何より十字架、その死、それは、主イエスが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたように、全く人からも、そして神からも 見捨てられた死であったのです。それ故、その遺体もそのまま放置されても決しておかしくはないし、むしろ、そのとき誰もが当然そうなるものと思っていたこ とでしょう。しかし、全く予期しないアリマタヤのヨセフという人があらわれ、おおよそ囚人の死には相応しくないような葬りが行われたのです。その日、神は イエスをお見捨てになったと誰もが思ったはずです。イエスが息を引き取ったとき、もう何もかも終わった、イエスの死を遠くから見守っていた女性たちも悲し みの中でそう思っていたはずです。しかし、全てが終わり、一切が無意味になったかのように思えたそのとき、既に何かが始まっているのです。

そして、ここでもうひとつ奇妙と言えばこれも奇妙なことと言わなければならないのは、このイエスの墓の葬りが、何故、金持ちの墓なのか、ということで す。およそ、ベツレヘムの貧しい馬小屋で生まれ、貧しい人、虐げられた人々と共に生きたこの方が、しかし、最後は金持ちの墓に、しかも、このような葬りを もって葬られた、ということです。

実はイザヤ53章の苦難の僕の歌、その9節には次のように記されています。「彼は不法を働かず その口に偽りもなかったのに その墓は神に逆らう者と共に され 富める者と共に葬られた」。イエスが、マタイがまた特にアリマタヤのヨセフを「金持ち」と紹介しているのは、まさしくこのイザヤ書53章9節の「富 める者と共に葬られた」という主の僕の預言が実現したと聖書は見ている、告げているのです。見捨てられたイエスが、金持ちの墓に葬られたことは、既にイザ ヤが預言したこと、すなわち、神のご計画、苦難の僕の栄光が始まっていることを、わたしたちに語り始めているのです。主の復活の序曲がもうかすかに、しか し、確かな響きをもって奏で始めているのです。ヨセフは、まだそのことを知りません。いえ、そこにいた誰も決して知らなかったのです。しかし、彼のしたこ とは、彼の予想を超えて、神のご計画の中にあったのです。

そうして「マグダラのマリアとヨセフの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」と、この福音書は、こうしてキリストの受難、十字架の出来事 を記し終えるのですが、「イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」この女性たち、マグダラのマリアとヨセの母マリアたちは、やがて三日目の朝、すなわ ち、わたしたちの日曜の朝、キリストの復活の証人となるのです。

今、眼に見えること、わたしたちがただ思うことを超えて、わたしたちを包む闇がどんなに深くても、神は働いておられるのです。このヨセフがそうであったよ うに、また、わたしたちも、まず第一にどんな深い絶望の中でも、このキリストの十字架を仰ぐことです。この十字架を、わたしのための十字架として、常に心 に抱いていくことです。パウロは言います、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ 2:13)。今夜、わたしたちは、このヨセフと同様、このわたしたちにも既に神の救いのドラマが始まっている、そのことをしっかりと胸に抱いて、イース ターに向かって歩んでいきましょう。


六本木教会の礼拝にいらっしゃいませんか。 毎週日曜日の午前11時から行われています。教会は営団日比谷線六本木駅から徒歩約10分のところにあります。

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