良い羊飼い

2011年5月15日 復活後第3主日
ヨハネによる福音書10章1〜16節
説教:高野 公雄 牧師

「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

ヨハネによる福音書10章1〜16節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

復活祭後の第三主日は、中世以来、「良い羊飼いの主日」と呼ばれて、この聖書個所が読まれてきました。私たちはその伝統を受け継いで、毎年、この日にはイエス・キリストが「良い羊飼い」であるという福音を聞きます。復活していまも生きておられるイエスさまと、今のわたしたちとの関わりを、羊飼いと羊の関係の比喩を助けとして、より深く味わおうとするわけです。

《わたしは良い羊飼いである。》

イエスさまは11節と14節でこう繰り返していますが、「わたしは○○である」というイエスさまの自己紹介は、ヨハネによる福音書にいろいろ出てきます。6章に「わたしはいのちのパンである」とあり、8章に「わたしは世の光である」とあり、11章に「わたしは復活であり、いのちである」とあります。まだほかにも、14章の「わたしは道・真理・命である」とか、いろいろな表現が出てきます。これらは、単なる自己主張ではなく、そのときそのときの出来事に即したイエスさまの自己紹介であり、そのイエスさまに出会った人々の信仰告白でもあるのです。

《わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。》

羊飼いと羊の比喩では、羊飼いの羊たちに対する愛情、羊たちの羊飼いに対する信頼が、つまり相互の親密な交わりが表されています。羊飼いと羊の群れはパレスチナの人々には身近な光景で、その比喩の意味することはすぐに分かったと思います。ところが日本では羊が飼育されることは少なく、なじみのない話になってしまいます。犬好きと犬、猫好きと猫との関係に置き換えてみたら、その親密さ想像できるのではないでしょうか。それはともかく、この比喩は当時の羊飼いの実際の姿が背景にあって話されたものです。

当時のパレスチナでは、羊は広い牧場の柵の中で飼われていたのではありません。羊飼いは遊牧生活でありまして、50頭から100頭の羊の群れを、草のあるところを求めて旅していくのでした。羊は弱い動物なので、羊飼いは野獣や盗人から守りながら、草のあるところに導くのでした。夜になると、各地に設けられた囲いの中に入れます。この囲いは羊飼いたちが何世代もかけて作り上げたもので、誰の所有というわけではなく、いろいろな羊飼いの羊たちが混じって夜を過ごしたということです。朝になると、囲いから出すのですが、羊たちはちゃんと自分の羊飼いを知っていて、自分の羊飼いに付いていくのだそうです。羊飼いの方でも、一匹一匹の羊を見分けることができたそうです。

羊飼いはラテン語でパストールと言います。それは、「家畜に餌を与える人」を意味しています。それがのちには、教会で牧師に対する呼び名となり、ひとの魂を配慮する人を意味するようになりました。

羊飼いは羊の群れを導く強い指導力と一匹一匹の羊の状態を見分けで世話をする愛情を表す象徴です。それゆえ、古代オリエントでは、政治的な指導者、王は自分が羊飼いとして表されることを好みました。旧約聖書でも王や指導者を指す場合が多いですが、また先ほど交読した詩編23編のように、羊飼いは神さまを象徴することも少なくありません。そのように神さまを象徴する言葉を、イエスさまに適用しているのが、この個所です。

《わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。》

イエスさまが良い羊飼いだという根拠は、イエスさまが神さまと愛と信頼の関係において一体であることにあります。この一体の関係に基づいて、イエスさまと信徒たちの愛と信頼の関係が作られるのです。良い羊飼いは他にもいるかもしれませんが、神との一体のゆえに、イエスさまは唯一無比の良い羊飼いだと言えるのです。

《わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。》

15節にもありましたが、11節にも羊のために命を捨てるのが良い羊飼いだということが言われています。これは、イエス・キリストの十字架の意味を知らないと理解できない言葉だと思います。実際の羊飼いは、強盗に殺されてしまっては、羊を守れません。ですから、これは、イエスさまの死が、羊たちの運命をより良くしたというイエスさまへの信仰が根底にあって言われているのです。

《人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。》

これは、マルコによる福音書10章45節の言葉ですが、弟子たちが、イエスさまは私たちのために死んでくださったのだと信じたことを伝えています。

《最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。》

これはコリントの信徒への手紙一15章3~5節の言葉です。あとからクリスチャンになったパウロは、先輩たちから、「キリストは聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだ」と教えられたと言っています。

《ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。》

長い引用になりましたが、これは、ローマの信徒への手紙3章21~26節の言葉です。イエス・キリストの十字架上の死という謎を、イエスさまの弟子たちは、古代世界ではどこででも行われていた動物犠牲の祭儀にかたどって理解し、それはわたしたちの救いのためであると受けとめたのです。

このような信仰を背景にすると、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という意味が分かってくるでしょう。

《イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。》

マルコによる福音書6章34節には、こういう言葉があります。良い羊飼いであるイエスさまは、飼い主がいない羊のように、道に迷ったり、危険にさらされたりしている私たちの有様を見て、深く憐れんでおられます。

《わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。》

イエスさまは、私たちが羊飼いの声に耳を傾け、羊飼いに従うように招かれています。教会は、イエスさまが私たちを彼と共に生きる羊にしてくださることを知るところです。この良い羊飼いイエスさまを自分の人生に迎え入れてください。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

5月
5

誘惑をどうする・・・

2011年3月13日 四旬節第1主日
マタイによる福音書4章1〜11節
説教:五十嵐 誠 牧師

◆誘惑を受ける

4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」

4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

マタイによる福音書4章1〜11節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安が あるように  アーメン

(今朝は、始めに東日本大地震のことを覚えています。TVで地震と津波による災害の大きさを見まして、災害に遭われた方がたを思い、心が痛んでいます。その方々の上に、平安があるようにと祈ります。

今日から教会の暦が「四旬節」にかわります。前には「受難節」と言いました。四旬とは40日の意味です。今日から復活祭の前日まで、主の受難・・十字架を覚えて過ごします。十字架の主を見上げて、悔い改めの生活を送ります。そしてキリストの「復活祭」を迎えます。教会のカラーは「紫」になります。祭壇、牧師のストールも紫です。紫は悔い改めを意味しています。

+           +         +

悪魔・・もしいるとすれば、悪魔の最大の勝利は、人々が悪魔というものは存在しないと、悪魔の存在を否定したことと言えます。現代人は天使的存在を・・良いにつけ、悪いにつけ・・信じません。結婚式を挙げる方に私はオリエンテーションで「天使があなたがたと共にいますように」と祈りますといいますが、はじめきょとんとしています。無理もありません。で私は天使論を述べますが、皆さんはどうでしょうか。いると思いますか。天使の存在は信じるが、悪魔はどうもという人が多い。

でも、私は両方の存在を信じています。天使の働きを言うと、結婚する方は喜んでいました。一寸メルヘンチックですから、良い天使がいて二人のために働いているなんてです。悪魔という存在を私は信じます。そうとかしか思えないような事が起こるからです。犯罪ですが、想像を超えるような凶悪な犯罪があります。最近の犯罪には・・あげませんが、殺人事件で、人間のすることかというようなのがあります。バラバラにしたり、火をつけて殺傷したり、無差別に刃物で襲ったりです。裁判になると、弁護士はたいてい、心神耗弱とか心神喪失とかで責任能力ないと無罪を主張します。

しかし、やはり、何か異常な力が、悪魔的な力が働いているという感じは捨てきれません。聖書でもユダ・・イエスを裏切ったイスカリオテのユダはイエスの弟子でしたが、「銀30枚」でイエスを売るわけですが、悪魔は彼の中に入って、イエスを売ったと言われています。(マタイ、ヨハネ福音書から)。悪魔が入ると言いますが、そう思うことがあります。

人が悪魔に誘われるのは、どんな場合かをイエスは、今日の福音書から教えています。

人間はいろんな欲望を持っています。名誉欲、権力欲、金銭欲、所有欲、性欲などです。人間が死ぬまで無くさないものは、名誉欲と食欲と性欲だと言います。他にあるかもです。

誘惑とは人に罪を犯させるように仕向けることを指します。聖書はあくま・サタンがその原因です。誘惑の手段は「肉の欲,目の欲,暮らし向きの自慢」(ヨハネⅠ・2:16)だと警告しています。アダムとエバもそうですし、キリストもそうです。(創世記3:1-13、マタイ4:1-14)。しかし、キリストはその全てに勝利・克服しました。

私たちの周りには誘惑の手が伸びていますし、内には自分の中にも誘惑の種がありますから、私たちは日常でも、誘惑との戦いがあります。人間は楽なこと易しいことを求めますから、それに悪魔が乗じる事になります。エバは蛇・悪魔の耳によいささやきに負けました。

イエスが受けて誘惑は三つ(ルカとは順序が違っています)ですが、1,名誉欲、2,権力欲、3、自己顕示欲でしょうか。これ誰でもあります。イエスは洗礼を受けて、いよいよ自分の使命に進むのですが、適性検査を受けているようです。もちろん神からです。仕事の免許状を神から与えられるためのテストです。イエスは合格して、メシア・世の救い主、はっきり言えば「世の中の人を救う方」としての働きに立つのです。ある意味では、イエスが誘惑に負けていたら、イエスの十字架も復活もなくて、人々から拍手喝采で迎えられたと思います。イエスは悪魔にひれ伏したら、大きな権威、力を持つ王として、期待していたメシア・王として、ユダヤ人は迎えたでしょう。イエスが期待に反したから、殺されたのです。

イエスは誘惑にあったとき、一言でかたづけました。議論はしませんでした。エバのように。(創世記3:1以下)。神の言葉・聖書の言葉です。「人はパンだけで生きるものではない」、(申命記8:3)、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」、(申命記6:13)「あなたの神である主を試してはならない」(詩編91:11-12)です。

*「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」。(申命記8:3)

*「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」。(申命記6:13)

*「主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」。(詩編91:11-12)

このイエスの聖書の引用は旧約聖書の「申命記」と「詩編」です。読んでみると、二つの点が分かります。それは、神第一にして、その言葉を聞き、その神に信頼していることです。イエスはご自分の経験を示していると思います。イエスという方は別世界に済んだ方ではなく、人間と共にいる方でした。イエスは人間の弱さ、もろさ、悩み、苦しみ、強がりなどを知っている方です。イエスは「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練(誘惑)に遭われたのです」。(ヘブル4:15)。私は思いますが、そういうイエスだからこそ、イエスに聞くことが出来るのです。体験なしに言っているのではないからです。

パウロは教会の信者にこう言っています。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」と、続けて「邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」と。「神の武具」とはパウロは続いて書いています。ナイト・騎士のスタイル・服装をあげています。彼の言葉で聞きましょう。「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。(エフェソ6:11-18)。完全武装です。

私たちは完全装備をするほどの誘惑や罪に出会った事はないと言えます。初代教会でも「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」。(ヘブル12:4)とありました。平和ですから誘惑なんかないと思っています。

いろいろとパウロは述べていますが、信仰・信頼と神の言葉と祈りになります。神は世界に介入して、創造の業をしているのです。神は悪と戦っているのです。

その戦場に私たちはいるのです。しかし、絶望はありません。なぜなら、その戦いの結末が分かっているからです。パウロはそれについて書いています。ローマの信徒にです。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができません。・・・他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。(8:31-39)。

一体誰が私たちの将来を握っているのかを、私たちは知っています。だから、私たちは様々な出来事に遭っても、忍耐をし、戦うことが出来るのです。私の好きな聖句の一つですが「わたしの時はあなたのみ手にあります。わたしをわたしの敵の手と、わたしを責め立てる者から救い出してください(口語訳)(詩編31:15)。新共同訳と違います。

注・「主よ、わたしはなお、あなたに信頼し、「あなたこそわたしの神」と申します。(新共同訳)

神のみ手の中にあるから、私たちは信仰の道を歩くことが出来るのです。

パウロはこんなすすめをフィリピの教会の信徒に勧めています。

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。4:7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょ」。(フィリピ4:-7)。

ある先生は私たちは「祈ることで悪魔や誘惑から解放」言いました。はじめ私はよく理解できなかったのですが、それは自分が膝を屈めている相手・悪魔より強い、大きな力のある方・・神・キリストに向かっているし、必ず助けてくださるという安心があるからです。それは「虎の威を借る狐」ではなく、また、空元気ではなく、「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって」、歩くことが出来るからです。(エフェソ3:12)。また、神が私たちの中に計画したことは。必ず「その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しているからです。(フィリピ1:6)。

キリストはゲッセマネの園で弟子たちに言われました。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」からと。(マタイ26:41)。また、ペトロも自分の経験からですが勧めています。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。(ペトロ5:7-9)。悪魔が・・誘惑するものがほえ猛る獅子のようにとは大げさですが、悪魔がそんな姿で来たら構えて、用心しますが、美しい天使のようだと負けます。悪魔は天使の姿で来ると言いますからです。パウロも「だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです」と言いました。(コリントⅡ11:14)。

今日の説教は少し時代遅れの感があるように思いますが、神の良き国に抵抗する陰謀のようなものが存在していること、そして悪魔という人格を持った存在がいるということを意識して、信仰を全うしたいと思います。            アーメン

コメントは受け付けていません。
3月
3

あなたがたのために救い主がお生まれになった

2010年12月24日 聖降誕祭燭火礼拝
今日 救い主 誕生!
ルカによる福音書2章1〜20節
説教: 五十嵐 誠 牧師

◆イエスの誕生

2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。

2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。2:3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。2:5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

◆羊飼いと天使

2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」2:13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」2:15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。2:17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。2:18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。

2:19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。

2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

ルカによる福音書2章1〜20節


私たちの父なる神と主イエスキリストから 恵みと平安が あるように  アーメン

今日の説教題は「今日 救い主 誕生!」という題ですが、正しくは「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という天使の言葉です。その言葉を今日一緒に聞きたいと思います。

クリスマスというのは、いきなり来たのではありません。旧約聖書の時代から連結した時間の流れの中でおきました。パウロはガラテヤの手紙で「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」言い、クリスマスは「時が満ちて」起きた事で、それは「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れ」(テトス2:11)た日だと書いています。クリスマスは、旧約の、神の約束の成就・実現した事を私たちは知る日でもあるのです。その時間的な流れを追体験するために、クリスマスの四週間前の「待降節」という期間が守られ、心の準備をするといわれています。一番顕著なことは、クリスマスクランツです。四本のローソクを、毎週一本ずつ点灯して、四本つけるとクリスマスがくるのです。心をワクワクしてクリスマスを迎えることになります。その意味では今日は本当にうれしい、喜びの日です。

今ではクリスマスは大きな祭りですが、最初のクリスマスは貧しいものですし、人々の目を引かない出来事でした。

また、クリスマスは驚きで充ちています。受胎告知でもマリアは驚いています。「どうしてそんなことが・・」と言っています。ヨセフも驚きました。慌てて婚約解消を考えていました。荒野の羊飼いも天使の出現に驚いています。東方の博士たちは星を見て、驚いてエルサレムに向かって旅をしました。宿屋の人たちも驚いたでしょう。なぜなら羊飼いたちがやってきたからです。なんだこれはです。何故人々は驚いたかですが、それは思いがけないことが起きたから驚くということです。驚かない人もいました。それは赤ん坊が生まれたという普通の出来事と考えるからです。生まれた方が神の子であると気が付かないからです。当時の人はクリスマスを前もって知っていた人はいませんでした。神が計画し、実行したからです。こんな仕方で神の御業が起こるとは、予想できませんでした。

クリスマスはイエス・キリストの誕生日ですと言います。ご承知のように戸籍が残っているわけではありませんから、正確ではありません。当時の他宗教の祝祭日を、意味を変えて転用したと言われています。そういうことはよくあります。また。イエスの誕生が歴史というか年代を決めています。つまり、BC、ADです。BCは英語ではBEFORE CHRIST・キリスト前を意味します。ADはAnno Domini・ラテン語・the year of Our Lordで、西暦・紀元を意味します。キリスト誕生を紀元元年としています。今はAD、BCを使わず、CEを使います。the Christian Era・キリスト紀元、西暦紀元です。あるいはCommon Eraとも言います。それは他宗教を尊重してです。

「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」とあります。ヘロデ大王の時代にイエスはベツレヘムに生まれたとされています。しかし、ヘロデは紀元前37年にユダヤの王になったヘロデは紀元前4年に死んでいます。天文学者たちの研究で、今日では紀元前7-6年をイエスの誕生と見ている人が多いです。ですから、紀元後の29-30年にイエスが十字架に付けられたとすると、イエスの生涯は大体37年位でしょう。イエスが伝道した期間・イエスの公生涯は最後の1-3年であろうと思われます。

クリスマスは神が計画し、実行したことといいます。聖書ではそれを預言と成就と言います。イエスが生まれるところも預言されていました。聖書はその場所は「ベツレヘム」だと言います。

普通クリスマスは誰のためかと言いますと、こんな答えが出ます。1.人間のため。2.世のため・世界のため。3.自分のためです。この3の答えが出来る人に、クリスマスの意味が出て来ます。しかし、よく見ると、クリスマスは神が必要としたものだと言うことです。神の側から見たクリスマスの意味です。人間の救いを見ますと、いつも神が先手を取っていると知るのです。私たちもそうです。イエスは言っています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)。

クリスマスは神のためとは?それは親と子供を考えると分かります。子供は親が何くれとしますと、いやがります。経験です。子供は、自分は自分なりにやっていると考えます。しかし、親がそうするのは「親の愛」と言えます。親の愛がそうさせるのです。それを五月蠅いと思うのですが、親は子供のためにしているのです。

これをクリスマスに適用します。神がひとり子イエス・キリストをこの世に送ることを決意し、実行したのは、そうせざるを得なかったのは、神がそうする情況が私たちの方にあったということです。「神の愛・こころ」がそうさせたのです。神は天より人間を見て、どうしても放っておけないので、イエス・キリストを、この世に遣わされたのです。神が放っておけないと考えたのは人間の罪でした。こんなことをというと奇妙に思うでしょうが、それは私たちが余り罪について考えないからです。たいしたことではないと思います。昔も今も変わりません。人間が罪を犯している、それを見ない振りをしているのが人間ですが、神は違います。神は罪の恐ろしさをよく知っているからです。ですから、神は手を差し伸べられたのです。それがクリスマスの出来事です。

マリアとヨセフは人口登録のために、ナザレからベツレヘムに向かいました。約140キロの旅です。二人はダビデの血筋のため、登録のために故郷の町・ダビデの町に行きました。ベツレヘムはダビデ王の生誕地で、ダビデはここで父の羊を飼い、預言者サムエルによって王として油を注がれています。(Ⅰサム16:13)。それ以来ベツレヘムは、「ダビデの町」(ルカ2:4,11)として知られるようになった。

町は混雑で、泊まるところはなかった。で、彼らは馬小屋を借りました。そこで、マリアはイエスを生むことになりました。多くの人は気がつきませんでしたが、その赤ちゃんイエスこそが神の子・メシア・救い主でした。

クリスマスの使信は単純です。神の子がおいでになったことによって、私たちはすぐ側に神がいつもいてくださるということが確信できるようになった。すぐ側にというと何ですから、どんな時でも、神が一緒にいてくださることを確信出来るようになったと言ってもいいのです。それをヨハネはこう言いました。「言・イエス・は肉となって・人間となって、わたしたちの間に宿られた・テントを張った」と。(1:14)。テントとは天幕を張ったということです。これは遊牧人・草原を移動して歩く民族・でないと理解が難しい。ユダヤ人はすぐ理解できました。エジプトから約束の地パレスチナにいく途中、彼らはテントを張っていました。移動式住居です。その中に特別なテントがありました。それは、神の住まいとしてのテント・天幕・「幕屋」(出40:1など)とも呼ばれていました。「彼らがわたしのために(幕屋)・聖所を造らされる第1の目的は、主がイスラエルの民の中に住むためでした。このことから、幕屋、わたしは彼らの中に住む」(出25:8)と主が言われるように、幕屋は「聖所」とも呼ばれています。で、旅の途中でも、そこに行けば神に会えると言うことです。つまり、いつも神が民と共に居るということです。

クリスマスは救い主の誕生日ですが、救いとは何でしょうか。宗教は救いを言います。いろんな救いがあります。困っているから助けるとか、人間の欲望を満たそうという信仰、いわゆる、御利益です。キリストはそんなことは言いません。確かにキリスト教にも、御利益はありますが。イエスとは天使が告げられたように「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。(マタイ1:21)。「罪」は神にとっても、人間にとっても放っておけないことです。前にも言いましたが。神は罪の恐ろしさをよく知っているからです。ですから、神は手を差し伸べられたのです。それがクリスマスの出来事です。

私はクリスマスは人間のあるべき姿、状態にすること、回復することだと思っています。旧約聖書の創世記は天地の神による創造を書いています。神は各創造の日の終わりに、「神はこれを見て、良しとされた」と言っています。英語では it was goodです。ヘブル語ではbAj-yKi(キー・トーブ)です。意味は「確かに よいです」。英語でCOSMOSというのがあります。意味は宇宙・調和・秩序です。調和とは美しい状態です。そこから、COSMETIC・化粧品がでました。ですから、ある先生は「美しい」と訳しました。神は六日目に創造のすべてを見て、「それは極めて良かった」と言いました。極めて美しかったです。でも、今はどうですか。その神の創造の美しさはありません。人間をとってもそうです。人間は美しいと言うより、汚れているのです。パウロはいみじく書いています。

「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。(エフェソ2:2-3)。

「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました」。

なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです」。(コロサイ1:21)。

パウロは結論します。「正しい者はいない。一人もいない」と。(ロマ3:10)。ですから、人間は調和のない状態にあります。つまり、罪に、悪魔、神に敵対し、神の怒りを受けるべき者でした。そんな状態から、神との調和・神との完全な交わりの状態の美しさを回復するために、クリスマスがあるのです。パウロはこう言います。「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです」。(エフェソ2:4-5)

年末になると、二つの鐘がなります。ヨーロッパに行った方が、日曜日の朝、町中の教会の鐘が一斉に鳴るそうです。それは至るところに神の救いが満ちあふれていることを語っているように感じると言いました。日本の年末の鐘は除夜の鐘です。大晦日にNHKのTVで有名なお寺の鐘の音を聞くことが出来ます。除夜の鐘は、夜中の12時に諸方の寺々で、百八煩悩を除去する意を寓して108回撞つく鐘を言います。百八煩悩とは人間の心身を迷わせる一〇八種の煩悩・一切の煩悩をいいます。

ある方が面白いことを言いました。お寺の鐘は“ゴーン”、「ゴーン」となる。教会の鐘は「カーン」、「カーン」となる。「ゴーン」は英語のgoneだ、教会の鐘はcanである。ゴーンは、(過ぎ)去った、過去の、いなくなって、見込みのない、尽きた、古くなったと言う意味である。響きは暗い。しかし、カーンは出来る、可能性がある、力がある、明るい響きがあります。ギリシャ語で「救い」は「変える」という意味があります。

私たちを・・心の定まらない私たちを・・造り変えようとされて、イエス・キリストをこの世に送り、十字架にあけられたのです。神はあなたを変えようとされているのです。

どうでしょうか。

羊飼いたちは「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」と書いてありました。私たちはどうでしょうか。今日、同じように「神をあがめ、賛美しながら」帰ることが出来るでしょうか。「崇める」とは何か。それは心からへりくだって、神を讃えると言うことです。「賛美」とは普通、ほめたたえると言います。しかし、ある先生によると、「賛美」は「神をなだめる」という意味があると言います。クリスマスに神を賛美するというのに、なだめるとはですが。ここにクリスマスの意味があるのです。クリスマスに生まれたイエスが、やがて、私たちのために十字架にかかります。そういう方が生まれたということがうれしいのです。分かると思います。うれしいことです。でも、考えたら、そのような方を送ってくださった神に対する感謝をして、罪を悔い改めて、神を崇め、賛美したい思いが沸くのではないでしょうか。

アーメン

12月
12

真理はあなたを自由にする

2010年10月31日 宗教改革記念日
説教: 五十嵐 誠 牧師

ヨハネによる福音書8章31〜38節

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安が あるように アーメン

真理はあなたたちを自由にする」は国会図書館の銘板に書かれています。この図書館の「真理」とは「存在と思惟の一致としての普遍妥当的知識,あるいは存在と行為の一致としての真実の」ことを言います。哲学的な真理です。アリスとテレスは「在るものを在ると言い、在らぬものを在らぬと言うことが真理である」と言っています。。

しかし、聖書では・・旧約聖書では、ヘブル語では「真理」または「真実」「まこと」などと訳されています。真実であられる神の御性格(詩57:10,117:2)を表し、また、神のみことば(詩119:160)、神の戒め(または仰せ)(詩119:151)、神のさばき(詩19:9)の真理性、真実性を表現しています。新約聖書では、ギリシャ語ですが、・・真理は救いのために啓示された神のみこころとしての「福音そのもの」を意味しています。「福音の真理があなたがたの間で常に保たれる」(ガラ2:5)ように書いています。また、「真理はイエスにある」(エペ4:21)。真理はイエスの中にあるのです。さらに、このイエスにある真理に私たちを導いてくださるのは「真理の御霊」(ヨハ14:17,15:26,16:13)である聖霊でもあります。さらに,この救いを宣べ伝える教会の正しい教義が真理と呼ばれています。(ヘブ10:26,Ⅱペテ1:12)、教会が「真理の柱また土台」(Ⅰテモ3:15)とも呼ばれています。所で、イエスの言う真理とは何かです。

私はイエスの「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」から、私は「イエスご自身とその言葉」であると思います。それが人々を自由にすると言うのです。

自由とは何か。自由を巡って議論があります。哲学、社会、政治、経済、文学、宗教での論議もあります。辞典を引きますと、勝手気まま、責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと、個人の権利(人権)が侵されないこと、自身の立てた規範に従って行動すること、自分の思いどおりにできることなどです。私たちの自由とは、何ものにも束縛されないで、自分の思い通りに出来ることが大きいと言えます。中世から近代へは人間の束縛から自由でした。宗教的な束縛からの自由でした。近代人とは神を脇に追いやるものでした。人間中心です。イエスの譬えの、あの放蕩息子のように、自分の思う通りに生きるのが自由と思います。いわゆる、自主独立を果たした人間が、自由人だと言います。

イエスの言う自由とは・・「もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」・・イエスが、イエスの言葉が与える自由とは何であろうか。ユダヤ人たちは誤解して、自分たちはアブラハムの子孫だ、神に選ばれた民だ、律法や儀式制度もある、自分たちはイスラエルの民で、神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は自分たちものである」(ロマ9:4)と言って、「今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」と言う民族的な誇りが、イエスの言葉に耳をふさがせる結果になりました。

*アブラムという意味については,アブは「父」を意味し,アブラハムとは「多くの国民の父」という意味で、カナンの地目指して生れ故郷であるカルデヤのウルを出発した。ユダヤ人の祖先で、信仰の父として尊敬されていた。

イエスの言う自由とは、そういう「 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢(ごうまん)、誇りと言う「罪」・・人間に巣くっている強力な、支配の力からの・・からの自由・解放」

を意味しています。この罪の束縛からの解放をもたらす方としてイエス・キリストが示されています。

パウロという使徒は罪についての自覚を語っています。私たちはそれほどには感じない点があります。彼は「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。・・そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。「自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。彼は叫びます。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」。そして、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」。と言い、救いがイエス・キリストから来ることを確信して、神に感謝を表しています。(ローマ7:14ー25)。

今日は教会暦では「宗教改革記念日」です。世界のプロテスタントの教会の、そして特別に、ルーテル教会の記念日です。世界史で学んだと思いますが、プロテスタント教会がローマ・カトリック教会と、教義の相違から、分かれたことを覚えて守ります。主人公はマルチン・ルター(ルーテル)というドイツの神学者で牧師でした。時は1517年10月31日ヴィッテンベルクの城教会の扉に、あの有名な「95箇条の提題・・贖宥(しよくゆう)の効力を明らかにするための討論」を張り出しました。その日がルターの改革の第一歩になりました。ルターは「免罪符」の発売を取り上げて、真のキリストの救いの福音を回復しようとしたのでした。

*しょくゆう・贖宥(indulgence)。カトリック教会で、すでにゆるされた罪の長期的な償いを、教会の権能をもって免除すること。

*免罪符・・贖宥しょくゆうのしるしとして中世カトリック教会が発行した証書。ローマのバチカンの大聖堂を修理するために売り出されたのが免罪符。贖宥状。賽銭箱にお金が入り、チャリーンと音がした瞬間、死者の魂は直ちに、天国に入るという宣伝文句が有名。

世界中におおくの宗教と信仰があります。千差万別・いろいろな種類があって、その違いもさまざまです。しかし、ただ、二つの宗教・信仰しかありません。世界の聖典・教典を翻訳したマックス・ミュラーという学者はこう言いました。それは「これこれを行いなさい。そうしたら救われます」と、「信じなさい。そうしたら救われます」だと。前者を「律法の宗教・業の信仰」といい、後者を「福音の宗教・信仰の宗教」と言います。つまり、「律法」と「福音」です。もちろん、キリスト教は唯一の福音・信仰の宗教です。じゃ、なぜ宗教改革が生じたかですが、当時のカトリック教会が福音を変えてしまったからです。問題は、どうしたら、その恵みの神を持つことが出来るかですが、・・この問は今月の31日の「宗教改革記念日」の中心テーマでした。マルチン・ルターは「如何にして私は恵み深い神を見いだすこと出来るであろうか」(Wie Kriege ich einen gnadigen Gott?)と言う問を抱いていました。ルターは修道院で、救われるためにはキリストのようになるように努力し、夜も眠らず、断食をし、祈り、自分の体を折檻し苦しめて、自分が忠実にかつ簡素に生き続けるように努めた」のでしたが、こんな方法ではキリストを見いだすことが不可能であり、キリストは、なおも、「あなたは罪と死に留まっている」と言われることに気がついたのでした。ルターは苦しみました。

*マックス・ミュラーという宗教学者は「東洋聖典全集」51巻)と言う東洋の宗教の教典を翻訳した本を出しました。彼は教典を訳して分かったことは、宗教には「これこれをせよ!そうしたら救われる」というのと「信じなさい、そうしたら救われる」とう二つしかないことだと。つまり、「律法」と「福音」です。

16世紀のカトリック教会は救いの道をコンクリートできっちりと固めていました。天国への階段を整えて、救いのシステムを作りました。信者の天国への保証を三つ階段で設けました。難しくなりますか簡単に言いますが、第一段は自助・selfhelp・すなわち善行による救いでした。「天は・神は自ら助ける者を助ける」です。第二段は「聖人の功績」でした。聖人とはカトリックでは特に信仰と徳にすぐれた信徒として崇敬され、自分の救いに必要以上の善行を果たした者で、その余得は教会で管理し、必要に応じて分配されるものでした。第三段は神と人が神秘的に合一することでした。日本にも「われ主に、主われに ありてやすし」という賛美歌があります。(旧賛美歌361)。これ以上のさいわいはない。

しかし、ルターはこの三段で悩みました。第一はどれだけ善行・よい業を充分に積まねばならないかでした。ルターは厳格に戒律を守ったので「自分は天国に入れただろう」と言いましたが、しかし、彼は充分な善行を確信できなかった。だから、彼は「キリストは恐ろしい方」と言っています。第二は聖人の余禄を受けるためには「懺悔」をすることが必要でした。しかし、ルターは人は果たして、自分の罪を全部知ることが出来るか、そうすると「懺悔」から「赦し」の道は閉ざされてしまいます。救いの保証はありません。絶望です。第三は「果たした罪深い被造物の人間が、全能の神と一つになれるか」という疑念でした。ルターは絶望した。ルターは良心的な人間で、罪に対して鋭い感受性を持っていました。そんなかで彼は、教会が失っていた宝を・・福音を再発見することになります。それは何処に?

福音の再発見。それは聖書でした。彼は聖書を深く学び、遂に「イエスを信じる信仰」と言う宝を回復しました。その中で、一つの出来事が起きました。それは「免罪符」問題

でした。聞いた言葉でしょう。免罪符は正式には「贖宥状(しょくゆうじょう)」と言います。英語では(indulgenc・ラテン語indulgentia)です。それはシステムの第二段の「聖人の功績・余得」から考えられました。ローマのヴァチカン・聖ペトロ大聖堂の増改築と修理で発行されました。その余得を原資に売り出されました。「贖宥状」とは「罪を赦す札・書面・証明書」です。ルターがこれを批判して「宗教改革」が始まりました。ルターは95箇条27条に当時のカトリック教会の「あなたの金が、賽銭箱に入り、“チャリン”と音がしたとき、煉獄(天国の手前で苦しんでいる)の魂は天国に入る、さー、さー買った」という宣伝文句を書いています。驚くべきことです。さらに、今までの罪ばかりか、これからの罪も、全部帳消しになるのだと説教しました。お金が救い主です。これは売れますね!

ルターが聖書から(再)発見し、ルーテル教会が宗教改革の精神としている三大原理があります。「信仰のみ」、「恵みのみ」、「聖書のみ」ですが、この教会の正面の壁面にあります。イスの背中のタイルにもあります。ラテン語で「Sola Fide」、「Sola gratia」、「Sola Scriputura」です。英語では「Only Faith」、「Only grace」、「Only Scripture」です。ルターは「律法の行いか信仰か」に対して、律法の行いでなく、信仰によるというのは、「信仰のみ、恵みのみ」ということであり、それは「聖書」しかも「聖書のみ」に由由来すると言ったのです。

ルターはキリストを小さくしたり、キリストを無視することに反対しました。ルターは聖書から見い出した教会の宝・福音を示しました。それが今朝の第二聖書日課のパウロの言葉「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義・神の愛と救いです。わたしたちは、人が義とされるのは(救われるのは)律法の行いによるのではなく、信仰による」の福音です。福音とは喜びの知らせです。パウロはローマ人への手紙3:22以下でも同じように書いていますが、今日は分かりやすい意訳(原文の一語一語にこだわらず、全体の意味に重点をおいて訳す)した文章を紹介します。リビングバイブルという翻訳ですが。「しかし今や、神は、天国へ行く別の道を示してくださいました。その新しい道は、「善人になる」とか、神のおきてを守ろうと努力するような道ではありません。神は どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです」。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義(救い)であって、すべて信じる人に与えられるものである」私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、恵みにより、無償(無料・信仰)で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです」。この福音をルーテル教会は受け継いでいます。それで、宗教改革記念日を守るのです。

ルターの再発見した福音は救いのシステムを簡略化したと言えます。ローマカトリック教会が築いた救いのシステムを破壊しました。イエスは救いの近道を造りました。カトリック教会はイエスを非難しました。パソコンでショートカットというアイコンがあります。それはそのアイコンをクリックするだけで、ソフトが立ち上がります。イエスは救いの近道・ショートカットを・・信仰による救いという道でした。それは証拠があります。

イエスが十字架に」付けられた時、二人の犯罪人も一緒に付けられていました。「ルカ24:39-43」です。十字架は三本です。状況は以下のようでした。

十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた」。

イエスが同僚をたしなめた犯罪人に「今日わたしと一緒に楽園にいる」と言いましたが、そのことによって「救い」を直ちに保証したのです。犯罪人は「御国においでになるとき」という言葉で、イエスがメシア・救い主であることを認めていたからです。(*「み国と「神の国」です)。このイエスを弁護した犯罪人は、心を入れ替えて善行に励んだから、救いを保証されたのではないのです。この犯罪人は証人です。人間は神に立ち帰る時、それは悔い改めてですが、罪が赦され救いに招き入れられることを、彼は証ししているのです。美しい場面です。その証し聞きたいと思います。

今朝、イエスは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言われています。自由にする・・自分は思い通りに生きていると思っています。信仰なんか関係ないとも。在る学者は宗教は要らないとさえ言います。しかし、宗教が示す人間の生き方・人間を人間として生かす宗教は必ず必要なのです。生きると言うことは実に多種多様な経験をするものです。信じる宗教を持つことは、どんな時でも、恐れず、真実な生き方が出来ると思います。

難しいことは言いませんが、人生を生きるとき、どんなときでも、信仰を持ち、信じて生き、希望を持って、自由な喜びを与えるのは「律法」か「福音・イエス」かを、見つめる日としていただきたいと思います。イエスは「真理はあなたたちを自由にする」と言われました、その真理をどこにみいだすでしょうか。

「真理」を考え、見いだす日となるように祈ります。

アーメン

10月
10