無限の赦し

2011年10月2日 聖霊降臨後第16主日
マタイによる福音書18章21〜35節
説教:高野 公雄 牧師

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。
あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
マタイによる福音書18章21〜35節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、「赦し」ということが主題となっています。
クリスチャンであろうがなかろうが、私たちは日常ほとんど毎日、赦しを求めたり、赦しを与えたりして生活しています。人の罪と言っても、たいていの場合、それは単なる過失であって、故意のものでも大したものでもありません。したがって、「赦し」が問題になるときというのは、その罪がもっと大きなもの、それらが意図的なもの、そしてとくにそれらが繰り返される場合だということになります。
その場合には、「人に対して寛容であれと言われるけれど、被害を受けた者の忍耐にも限界があるはずではないか。どうしてもあの人だけは赦せない」。また、「人に罪を犯した者はこころから反省と謝罪をしているのであろうか。赦してはいけないことだってあるはずだ」。こういう思いを抱くことがあります。それは当然のことではありますが、被害者の側、また加害者の側についての、こうした問題は、先週の礼拝でこの前の段落つまりマタイ18章15~20で扱いました。きょうの段落では、ふつうの人間関係とは別の問題を扱うことになります。

《そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」》。
マタイによる福音書18章は、教会における兄弟姉妹の交わりのあり方についての教えがまとめられていますが、きょうの箇所はその結びになります。弟子のペトロが、兄弟が罪を犯したときは、何回赦すべきでしょうか、と質問すると、イエスさまが答えます。7の70倍。「7」という数は「完全さ」を表す数だと言われます。「7の70倍」はもちろん「490回まで」という意味ではなく、「無限に赦せ」という意味です。
また、この表現は創世記4章23~24のレメクが妻たちに得意になって語った言葉《アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍。》を思い起こさせます。イエスさまは、ここで弟子たちに復讐の放棄を求めておられるとも言えるでしょう。

《そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった》。
続く23節以下でイエスさまは「仲間を赦さない家来のたとえ」でもって「赦し」のキリスト教的根拠を語ります。「赦し」は神さまの本性と深く関わることです。そのことが、《そこで、天の国は次のようにたとえられる》という始めの言葉で表されています。
たとえは、大きな国の王と、その国の州や属州を任された役人との決算処理の場面を描いています。王と役人はたとえでは「主君」と「家来」と呼ばれていますが、「主君」と訳された言葉は、神さまやイエスさまを指す「主」と、また「家来」と訳された言葉は、信者を指す「僕」と同じ言葉であり、これが神さまと私たち人間をたとえていることが分かります。
大きな税収のある大きな州の総督(役人)が王に納める莫大な額のお金一万タラントンを横領していたことが発覚しました。一タラントンは6000デナリオン、一デナリオンは労働者の一日の賃金ですから、日雇い6000万人分です。仮に日当一万円としますと、彼は王に6000億円を負ったわけです。返せと言われても返せません。王は立腹してその家来に、自分も妻も子供たちも持ち物も全部売って返せと命じます。全部売っても間に合うはずはありません。王は家来に屈辱的な罰を与えようとしているのです。家来は必死で「どうか待ってください」と懇願します。すると、《その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった》とあります。王は家来の「きっと全部お返しします」という言葉を信用したのではありません。王はその家来を「憐れに思って」赦してやったのです。王はこの家来から莫大な金額の損害を受けましたが、より大きな損害はこの家来との信頼に満ちた主従関係が損なわれたことです。王は損害を取り戻すことよりも、その負債を棒引きにして、それまで共に歩んできたこの家来との親密な関係を維持することを優先させました。このように、「赦し」とは損害を我慢することよりも、人と人との絆を大事にすることなのです。

《ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した》。
たとえの第二幕では、あの横領を働いた家来が仲間に貸した100デナリオンの返済を迫って、乱暴にも投獄してしまったというのです。日当1万円として100万円です。これは王に赦された金額の60万分の1です。彼も王の役人であってみれば返せない金額ではありません。これを知った仲間たちは非常に心を痛めて、王に告げます。王はその横領した家来を呼びつけて、恩赦を取り消し、投獄した、という話です。
このたとえの王は三度、心を変えますが、そのように神さまは気紛れだと言っているのではありません。たとえの中心は、あくまでも王の異常に寛大な行為であり、私たちもその忍耐と寛容に学ぶべきだというところにあります。
また、イエスさまは「無限に赦せ」と教えたのに、王はあの横領した家来を一度しか赦さないのでは、話が違うではないかと思われるかも知れません。でも、あの王に赦された家来が、仲間の窮状に同情せず、金を惜しんだことは、王が絆を大事にしたことをまったく理解していないことを示しています。それは彼が王との交わり、また仲間との交わりを無用のこととして交わりの外に出ていくに等しい行為です。たとえの第二幕は、主君の家来として留まろう、天の国に連なる者であろうとするならば、自らその絆を断つようなことをしてはいけないと語っているのです。それゆえ、きょうの福音は、この言葉で締めくくられます。《あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう》。

《主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか》、私たちにもこう言いたいときがあると思います。人の罪を赦すことは容易なことではありません。そのときには、イエスさまとの愛の絆、大いなる赦しのありがたさを思い起こして、その絆と共に兄弟姉妹の絆をも大事にするために、この絆を壊さないために、いま一度赦すことができないものか、自分自身に問うてみようではありませんか。そのとき、神の大いなる赦しの愛の中で、人を赦そうとしない自らの醜い罪の魂をはじめて知るようになるのです。
《わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように》(マタイ6章12)。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

10月
10

道 真理 命

2011年5月22日 復活後第4主日
ヨハネによる福音書14章1〜14節
説教:高野 公雄 牧師

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

ヨハネによる福音書14章1〜14節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音書は、イエスさまが弟子たちに語りかけた励ましの言葉《心を騒がせるな》で始まります。イエスさまは最後の晩餐が済みますと、弟子たちに別れを告げる説教を始めます。その説教でイエスさまは、いよいよ最後の時が来たことを告げます。そして、《わたしが行く所にあなたたちは来ることができない》(13章33)と言い、ユダヤの裏切りとペトロの離反を予告します。当然のこと、弟子たちは動揺したことでしょう。そこでイエスさまは《心を騒がせるな》と語りかけます。心を乱してはいけない、という倫理的な話ではありません。心の乱れを、わたしがこれから話す言葉によって克服しなさいという励ましです。

しかし、その励ましが必要なのは、二千年前の弟子たちに限りません。現代人はみな不安のうちに生活しています。いまほど精神科医が、心理カウンセラーが必要とされている時代はありません。現代人は自分たちがどこから来てどこへ行くのか分からなくなっています。いわば「ふるさと」を失ってしまったのです。それで、本人が自覚すると否とにかかわりなく、現代人はみな不安なのです。イエスさまはそんな私たちに対しても語りかけます。《心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある》と。ここで《父の家》とか《住む所》と言われているのが、私たちの「ふるさと」、「人がそこから来て、そこへ帰る」所です。私たちの「ふるさと」は、イエスさまの示された父なる神のみ許にあるのです。

しかし、トマスには、そのことがまだ明白ではないと感じられました。《主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか》と問いかけます。この問い《主よ、どこへ行かれるのですか》は、ペトロもまたすでに13章36で訊いています。なるほど、目的地が分からなければ、そこにゆく道を知ることはできません。この質問は、はからずもイエスさまから偉大な言葉を引き出すことになりました。《わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない》。つまり、イエスさま自身がわたしは道であり、真理であり、命であるというのです。イエスさまの道は、十字架と復活の道です。十字架は、《あなたがたのために場所を用意しに行く》歩みであり、復活は、《行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える》歩みです。《こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる》のです。

イエスさまに従ってこの道を歩むのが、イエスさまの弟子の人生です。イエスさまの後に従って歩む道とは、13章34によれば、《わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい》ということであり、マルコ8章34によれば、《わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい》、つまり己が苦しみを十字架とみなして、イエスに従うということなのです。

《わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない》。この言葉は日本人には評判が悪いです。日本人のもつ宗教意識は一般に、「分け登るふもとの道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」という古い道歌が言うように、宗教の入り口はいろいろ違っていても、最終的に到達するところは同じであるというもののようです。ところがキリスト教は、正しい道を歩まなければ、目的地に行き着くことはできないと言います。そしてヨハネ福音書はここで、イエスさまこそが正しい道であり、イエスさまによらなければ、だれも父のもとに行くことができない、目的地に行かれないと主張します。イエスさまを知ることは、神を知ることです。これこそが、キリスト教をキリスト教たらしめる基本原則です。この原則を最初にはっきりと書き記したのがヨハネです。これがキリスト教をユダヤ教から独立させた決定的なポイントです。

《あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。》

私たちがそこから来てそこへ帰るそのところ、すなわち神のみ許を知っていさえすれば、神を信じることができさえすれば、不安な心も落ち着くことができるでしょう。でも、現代人である私たちはもはや神を信じることができず、ふるさとを失い、不安から逃れられずにいるのです。8節で弟子のフィリポは言います。《主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます》と。これは私たちみんなの心にある望みでもあるのではないでしょうか。神が見えさえすれば、信じることができるのに、人はその神を見ることができないのです。

イエスさまの答えはこうです。《フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ》。すなわち、私たちは肉眼で神を見ることはできないけれども、地上を歩まれたイエスさまの言葉と業をとおして、私たちひとりひとりに対する父なる神のみ心、愛を知ることができる。私たちはイエスさまを介して霊の目でもって神を見ることができるのです。それなのに、私たちはなんとしばしば神を見失い、神を疑うことでしょう。わたしたちは繰り返し繰り返し《こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか》というイエスさまの悲しみを帯びた慈しみの声を聞き、《わたしを見た者は、父を見たのだ》という諭しの言葉を聞かなければならないのです。多くの神々がいるのか、または神などという存在はいないのか、私たちには分かりません。しかし、私たちはイエスさまの言葉と業のうちに、私たちを赦し、愛する神のみ心を知ったがゆえに、神を信じるのです。その他に子細はありません。

ヨハネはすでにこのことを、福音書の冒頭に言っていたます。《言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた》(1章14)。また《いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである》(1章18)。

使徒言行録11章26に《このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである》とありますが、キリスト者(クリスチャン)という呼び名は、もと「キリストかぶれ、キリスト狂い、キリスト馬鹿」というような蔑称だったと思われます。確かに、キリスト者は、キリストの心を自分の心として生きる者であります。私たちはキリストのことしか知りません。キリスト馬鹿つまりクリスチャンという呼び名を喜んで受け入れようではありませんか。そして、私たちは、日々、イエス・キリストとの生き生きとした交わりをもち、イエス・キリストと共に歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

5月
5

人はみかけによるのでしょうか

2011年3月6日 変容主日(顕現節最終主日)
マタイによる福音書17章1〜9節
説教:安藤 政泰 牧師

六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
マタイによる福音書17章1〜9節


私たちの日常生活は小さな出来事の繰り返しです。そして、その小さな出来事につまずきます。風邪がなおらないと何か悪い病気にかかっているのではないかと考えます。特にある年令に達しているとよけいそうです。

主はこうした日常生活の中にいつでも来ておられることを思い出してください。
日常生活の中で私たちがあまり意識してない行動や言動を主は、聖なるものと結びつけて下さるのです。私たちは同じ行動や言動でも、それを否定的に受け止める時も、肯定的に受け止める時もあります。

教職や信徒は誰によって養育されるのでしょうか。それは、もちろん神により導かれ育てられます。具体的には人を通して実際には行われることがあります。
教会を通して、信徒を通して、教職も信徒も養育されます。相互に養育しあう関係です。人がそれを行うのではなく、神が介在して行われます。

さて、主の変容は私達に隠れた主の姿を見させてくださいます。この主イエス・キリストの姿は私達には顔覆いで隠されているのではなく、主イエス・キリストの受難によって隠されているものです。
16章21節以下に、「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

主はご自身の受難について弟子たちに明らかにされていますが、弟子はそれと理解することはできない。しかし、この主の変容で弟子達は主の蘇りの姿を知る事ができたはずです。しかし、本当に弟子たちは理解したのでしょうか
残念ながら聖書を読む限りそのようには読み取れません。
17章9節で「一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。」

主はこの事を秘密にするように弟子に命じています。何故イエス・キリストはこの事を秘密にされたのでしょうか。私達にとって日常的な事と非日常的な事があります。主イエス・キリストの変容の出来事はこの両方を持っています。それゆえに、人は誤解をする可能性があります。外見によって判断したり、自分の解釈で不思議、不可思議な事を解釈してしまう危険性があるからです。
弟子たちも同じようにこの変容の出来事を本当に理解できたのでしょうか。
ペテロの言動を見ても、決して本当に理解したとは考えにくいです。その時起こった現象に目を奪われてその背後の真実を見ることが出来ないのが通常です。

いわば現象に目を奪われてしまい、真実を見ることが出来ないのです。見かけで判断してしまうのです。
「人は見掛けによらない」と言います。このことの本当の意味は「人は見掛けによる」と言うことです。見掛けで人を判断するのがこの世の中の常です。

この外見で、見掛けで判断する事の危険は、自分のイメージでその人を判断することです。特に外見から判断してしまいがちになることです。自分の中にあるパターンにその人を照らし合わせて、判断するのです。自分の過去の経験を照らし合わせて 理解しようとします。
変容の現状に立ち会った弟子たちがそうであったようです。旧約の記述、自分の見聞、経験などを 尺度に考え判断してしまします。

しかし、こうした誘惑を乗り越えて本当の姿を見ることが出来るようになるのは信仰の目 聖霊の導きにより開かれた目でしか見ることができません。

変容日主の真実は 復活の主の姿 昇天の主の姿です。
それを 主のご受難の前に示された神の恩寵を私たちは知るべきです。
しかも 日常生活の中で、聖霊の導きになりのみ神の恩寵を受けられます。

コメントは受け付けていません。
3月
3

イエスの洗礼と私・・・洗礼とは

2011年1月9日 主の洗礼日(顕現節第2主日)
マタイによる福音書3章13〜17節
説教:五十嵐 誠 牧師

◆イエス、洗礼を受ける

3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。3:14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」3:15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。3:16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。3:17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
マタイによる福音書3章13〜17節


私たちの父なる神と主イエスキリストから 恵みと平安が あるように  アーメン

さて、今日は「主の洗礼日」という教会の暦の日です。福音書も洗礼について語り、最後に、イエスの洗礼でと閉じています。3章には洗礼者ヨハネの洗礼についてありました。彼はヨルダン川で「悔い改めの洗礼」をしていましたが、多くの人々が受けていました。彼は自分の洗礼を「水で洗礼をする」といい、もう一つの洗礼について語っていました。「聖霊と火による洗礼」です。後者はイエスの、キリスト教会の洗礼を言います。今日はイエスの洗礼・・イエスが教会に命じられている洗礼とその意味について、考えていきます。

ただ、一つ蛇足ですが、誤解があるので、「聖霊と火による洗礼」に触れます。現在でも、洗礼は二つあって、二つめの洗礼を経験しないと、本当の信者でない。生まれ変わっていないと言います。二つめの洗礼とは「聖霊の洗礼」です。私が横浜教会にいたときに、そう言う方がいました。その方は自分が「聖霊の洗礼」を受けたことを、嬉々としてかたり、私のことを見て、生ぬるいと思ったんでしょうか、「先生のために祈っています」と言いました。私はからかうつもりはないのですが、正直言って、少しはからかう気で「何を祈るのですか」と聞きました。その人は「聖霊の洗礼・バプテスマを受けるようにです」と。私はお礼を言い、でも「そんなことで神さまを煩わすことないですよ。主はめぐみ深い方ですから、既に私に聖霊をくださっていますから」。すると、疑うように言いました。「本当ですか、どのようにして、いつですか」といいました。私は高校生時代に、横浜教会で、イゴルフ宣教師から洗礼を受けました。父と子と聖霊の名によってです。イゴルフ先生は、「あなたは聖霊を受けましたよ。それを用いなさい」といってくれましたし、私は牧師就任式の按手で、「さあ、あなたは聖霊を受けていますよ、行って福音を語りなさい」と告げられ。牧師として仕えています」。聖霊が、私に、お前は聖霊の賜物を用いていないねとか、聖霊で生きていないようだねとか言わない以上、私は聖霊を受けていることを否定できませんよ」といいましたが、その方は「おお!主よ」と言いました。失望したのでしょうか。変な牧師と思ったのかも。

キリスト教が衰退したり、生ぬるい様子を示しますと、聖霊運動が発生します。今もあります。ルーテル教会の行き方に失望して、その運動に参加する人がでます。私も、そんな方を経験しています。でも、よく見ると続かないで終わることが多いと思います。その人は自分の信仰は大学院クラスの信者だが、先生は高校生クラス以下と言いたいようでした。悪意はないのでしょうが、このような人は、信仰の裁判官のように振る舞いますし、自分の信仰を誇るのですね。聖霊がもたらす実の“愛、平和、優しさ、親切、柔和、誠実、節制”が見えないのは不思議でした。いい点が沢山あるのですが、なぜ、こんな間違いが起こるかですが、それは洗礼は神の業であるということをしっかりと理解しないことから起こるのです。神の業であるから、神の業を補完するような、確かにするような、別の“わざ”を待つことは要らないのです。たとえば、イエスの十字架は私たちの救いにとって十分だから、人間が何か補充する必要はないのと同じです。(反対を言うのが神人協力説があります・synergism)。私は、すべての誤りや誤解は、それが神の業であることを理解しない、見ない、知らないで、人間が何かしなければ考えることから来ていると思っています。

今日はイエスの洗礼を見ますが、普通は、イエスが洗礼を受けるとは考えられないことです。というのは、洗礼はペトロが次のように言っているからです。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(使徒言行録2:38・ペンテコステの説教)。また、イエスは罪のない方だからです。天使はマリアに「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)。

「この大祭司(キリスト)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。)(ヘブル4:15)。

では、なぜ罪のないイエスが洗礼を受けられたかですが、・・ヨハネは自分こそ、イエスから受けるにふさわしいというのは正しいのです・・マタイはイエスが「止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(3:15)。「正しい」とは、学者は解釈しますが、「正しい」(ツェダカー)はヘブル語では救いを意味します。救いとは神の行為であり、死ぬべき人に命を与える神ご自身の業になります。私は、イエスはご自分の救い主としての働きを始めるあたり、その第一歩として受けられたと思います。私たちと連帯するためです。ですから、イエスは洗礼を尊重し、受けられたのです。ですから、イエスご自身も教会に洗礼を命じられたのです。ですから、洗礼を軽視したり、無視することは間違いなのです。

現在、洗礼はどう受け止められているでしょうか。先の聖霊の洗礼は別にしてですが。普通は、洗礼は人がクリスチャンになる時や、教会の会員になる際に受けるものと考えています。いわば、新人の入社式・入会式的な見方です。洗礼を受けると、信仰の共同体の教会の仲間・会員になります。そして、権利と義務が生じます。洗礼は、はじめから、キリストに従うものになるとは、キリストの体である教会に繋がれることなのです。残念ことは、洗礼を受けると、そこで止まってしまう信徒があることです。俗に「卒業信者」です。これは意外に多いのです。信仰のABCで、それ以上行かない人です。卒業式ですが、日本語の感覚では、終わり、終点のように思いますが、英語では・・ラテン語ですが、コメンスメント・commencementですが、意味は始まり、開始です。ヘブライ人への手紙で、著者(パウロ?)は書いています。心して聞きたいと思います。

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。(新改訳)。

洗礼は実に豊かなもので、人を導き、聖別し、祝福し、神の国へと迎え入れる、栄光に満ちたもの・神の業です。

生ぬるい生き方の信仰者への批判として、前に触れた聖霊派の動きがありますが、中には、もう一回洗礼を受けたい、・やり直しを希望する方がいました。驚きました。気持は分かりかすが、洗礼の意味を間違えています。ある意味では、洗礼について正しく理解していないから、信仰生活が、生ぬるいし、信仰の確信がつかめないと言えます。洗礼の仕方は二つあります。額か頭に水を注ぐと全身を水に入れる、です。ルーテル教会は前者です。

次の質問にどう答えますか。ルターがあるとき、したものです。「あなたはどうしたら自分がキリスト者(クリスチャン)であると、自分で知ることができるでしょうか」。また、私からの質問ですが。「自分の信仰が、揺るいだとき、悩みに落ちたとき、悪魔が信仰から引き離そうとしたとき、どこに、立ちますか」です。多くの方にとって答えにくいと聞きました。でも、ルターの質問も、答えは簡単なのですが、私たちは自分の信仰に、固い自信がないからです。たいていの方は自分の信仰は貧しいものといいますし、感じます。後者の私の質問も、うろうろしている自分を思い出します。私たちの周りには、多くの仲間が信仰から、脱落したりするのを見ます。答難いのというのは、教会が正しく教えていないと言うことも原因です。信徒も、今さらそんなことを聞けないとか、恥ずかしいと思います。で、答えを見いださないで、教会から去っていく場合もあります。

ルターは、最初の質問に答えています。「あなたはご自分が洗礼を受けていることを知っているでしょう。それならば、ほかに知らなければならないことなどありません」と、はっきり言っています。また、彼自身も、ある時、サタンが現れた時に、インク瓶を投げつけて、「私は洗礼を受けているんだ」と答えて、悪魔を追い払っています。その傷跡が部屋に今もあるそうです。私の質問への答えですが、私もルターと同じように、「洗礼こそ、私たちの帰る原点だ」と答えたいと思います。“Back to the Baptism”・・Your My Baptismです。私は自分の洗礼を自分の出発点としながら、現代の社会で、キリスト者として生きる力と意味を、今年は見直ししたいと思っています。旧約聖書で預言者イザヤは、勧めています。(46:9)「思い起こせ、初め(昔)のことを」。これは面白いですが、日本は「忘れる」ですが、ヘブル人は「忘れるな・覚えていよ」が特徴です。

洗礼とは何でしょうか、どんな意味が私にあるのでしょうか。私も復習の意味で考えて見ました。凄い内容でした。自分でも忘れていたことや、洗礼準備コースで教えたつもりですが、どれだけ皆さんが覚えているかです。共に学んでいきましょう。

1.神との永遠の契約です。私たちが神の子として、神のものだという“しるし”(十字架の)です。神に属するものとして“刻印・焼き印”額に(目には見えませんが)持つものです。大きな印鑑で押しているのです。洗礼において神はわたしたちをご自分のとものとされたのです。私たちは神に選ばれたのです。洗礼は神との永遠の契約ですから、それは永遠に有効なのです。再洗礼は不要です。ルターはこう言っています。「洗礼は、神が私たちを所有されていることを示すしるしである。神は私たちのために代価を払い、私たちに刻印・焼き印を押し、私たちを買い取られました。それ故、私たちはもはや恐れることはなく、静かな確信を持って生きることができる」と。そう思います。ルターは面白いことを言っています。「神は“嫉妬・jealousy”の神だから、ご自分の民に他の神々がちょっかいの手を出そうとするのを、決して赦しません」と。私たちは神の中にあるのです。私は確信を持っています「神は、この私を知っていてくださる」と。確かなことです。パウロは迷っていて、信仰から落ちようとしたガラテヤの教会に書いていました。「今は神を知っている、いや、むしろ神から(神に)知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」(ガラテヤ4:9)。

2.洗礼はキリストと一つになること・・よく、日本では神と一つになるというと“エクスタシー・ecstasy”つまり、忘我、有頂天、恍惚、法悦にとります。えも言われぬ・何とも言い表せない感情です。私は先日、コロサイ人への手紙の注解書を翻訳しました。その中で、パウロは洗礼について書いていました。以下です。

洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。・・・罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです」。(コロサイ2:12-13)。

パウロはさらに、「神は・・・わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです」。(テトス3:5)とも書いています。

洗礼は古い自分がキリスト共に死んで、私たちを新しく生まれた者、新しく創られた者にするのです。素晴らしいことではないでしょうか。この罪の中にいた者が、その罪が洗われて、新しい人として変えられ、生まれるのです。自分は変わる必要がないと思う人は、変わりようがありません。手がきれいな人は洗う必要がないからです。丈夫な、健康な人には、医者は要りません。

そして、新しくされた人は、それは神がなされた業ですから、その神は必ず、最後まで導かれるのです。パウロはこう言いました。フィリピ1:6です。

「そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している」。私はそう確信しています。

黒人霊歌に「アメージング・グレース」というのが、よく歌われます。本田美奈子さんや森山良子さんが歌います。数年前の関東地区サマーキャンプで、小坂忠先生のは、信仰がこもった歌い方でした。それは「驚くべき恵み!」と訳されます。私は今、神に見いだされたことを歌ったものです。救われた瞬間を思い起こしているのです。しかし、多くの人は、後半の言葉を忘れています。それはこうです。「これからも神の恵みが私たちを、ふるさとへ導いてくれる」と。故郷とは神の国・私たちに用意されている天です。パウロが「わたしたちの本国は天にあります」と言うとおりです。私の時は神のみ手の中にあると信じて生きたいと思う。

3.洗礼は、普通、人がクリスチャンになる時や、教会の会員になる際に受けるものと考えています。いわば、新人の入社式・入会式的な見方です。洗礼を受けると、信仰の共同体の教会の仲間・会員になります。そして、権利と義務が生じます。洗礼は、はじめから、キリストに従うものになるとは、キリストの体である教会に繋がれることなのです。教会から離れた、独身の信仰者はいないと言うことです。ぽつんと離れた、無教会的な信徒は存在しないのです。日本には無教会というのがありますが、でも仲間・グループをなしています。

教会の洗礼式で、私たちはショウ・見せ物を見ているのではないのです。私たちは新しく洗礼を受ける人の、教会の仲間・会員として集まっているのです。そこでこう言います。「今や、あなたは私たちに属する方です。そして、私たちはあなたに属する者です」。洗礼は私たちを、教会に、人々の共同体に、つまり、キリストの体に結びつけるのである。私たちはその(キリスト)の体のメンバー(部分)になるのである。だから、私たちは皆、家族です。“Christian family”です。よく“家庭的な教会”と言います。何かいい感じを思いますが、これがくせ者です。マーマー主義になります。信仰生活でお互いに見ぬふりをする、注意しない。そして、居心地のいいグループになる。それが暖かい教会と思います。それは違います。「ブロークン・ウィンドー理論・Broken window theory」と呼ばれている言葉があります。こわれ窓が放置されている学校は規律が甘いので、少々のいたずらを見過ごすだろうと思われてしまう。いたずらを見過ごすなら、少々の悪事も見過ごすと思われてしまう。やがて地域の荒廃、衰亡に至ります。教会も同じです。自分の教会を見直してみたい。会員はお互いに「切磋琢磨」したい。

私たちの交わりは、本当は“み霊による生活”です。それは相互責任の共同生活、相互に分かち合う共同生活です。パウロはこう言っています。どうですか。

「私たちは従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」(ローマ7:6)。「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」(同12:11)。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」。(フィリピ2:11ー12)。

1965年のミス・アメリカの美人コンテストで、ボンダ・ケイ・バン・ダイクは、最終審査に上がる前に祈りました。自分が最善を尽くせるように、またできれば、キリストの証人となることができるようにと。彼女はチャンスを手にしました。司会者は「あなたが、幸運をもたらすお守りのように、いつも聖書を身に付けているのを、私は知っています。あなたの宗教について一言どうぞ」と求めました。すると彼女は「私はお守りとして聖書を持っているのではありません。聖書は私にとって大切な本です。神と私の親しい交わりのことを宗教と呼びたくありません。それは信仰なのです。私は、神を信じ、信頼し、いつも神のみ心がなされるように祈っています」と。

私は彼女の言葉の「神と私の親しい交わりのことを宗教と呼びたくありません。それは信仰なのです。神を信じ、信頼し、いつも神のみ心がなされる」ことを、共にする所が教会だと思っています。宗教と信仰の違いをしっかりと見極めなくてはならない。私たちは案外、宗教的な生き方をしています。ぞれが信仰と誤解しています。

私たちは家族との生活を通して、家族とはなにかを学んだはずです。家族の中で共に生き、責任を持ち、それを果たし、相互に教え合い、共に食卓を囲み、互いに愛し、愛されることを通して学びをしたはずです。それと同じく、教会・神の家族においても、参加し、経験しながら成長していくのです。パウロは次のように勧めています。コロサイ3:12以下です。この教会の結婚式でよく読まれます。

「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」

ルターは洗礼について、こう言っていました。「神は水の中に(洗礼に)祝福という真珠をおくのである。信仰は無代価の賜物として、これらの祝福・真珠を受ける手である」。

その洗礼を思い起こし、その原点に立って、救われた者として、日々生きたいと思います。

アーメン

1月
1