聖霊が降る

2011年6月12日 聖霊降臨祭
ヨハネによる福音書7章37〜39節
説教:高野 公雄 牧師

祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

ヨハネによる福音書7章37〜39節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうはキリスト教の三大祭りの一つ、聖霊降臨祭です。この日を記念して、皆さまには赤いものを身につけて礼拝に集っていただきました。ちなみに、他の二つの祭りは、復活祭と降誕祭です。教会の暦では、この三つにだけ「祭」という字がつきます。他の祝日や記念日は「昇天主日」とか「宗教改革記念日」といいうように呼ばれるだけです。

聖霊降臨の出来事は、使徒言行録2章1~4にこう記されています。《五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした》。

二千年前のこの日、イエスさまの直弟子たちが集まっていると、突然に激しく吹く風の音と共に、聖霊が舌の形をした炎の姿で弟子たちひとり一人の上にくだりました。赤いものを身につける習慣は、この日の出来事を覚え、私たちもまた聖霊の火の降臨を願い求め、また感謝する心を表しているのです。

「聖霊」の「聖」は「神の」という意味です。「霊」はギリシア語で「プネウマ」と言い、本来、「風」や「息」を意味する言葉です。聖霊は目に見えないので、その働きを感じさせるしるしをもって表現されますが、使徒言行録2章では「激しい風が吹いてくるような音」(2節)や「炎のような舌」(3節)がそれで。なお「舌」のギリシア語は「グロッサ」で、これは6節《だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。》の「言葉」と同じ語です。「炎のような舌」は、使徒たちに与えられる聖霊の賜物が、言葉の賜物であることを象徴しているのです。

ところで、聖霊の力を得た弟子たちは公然とキリストの福音を宣べ伝え始め、その日、新たに三千人が洗礼を受けたといいます(2章41)。聖霊降臨の日は教会の誕生日でもあります。

聖霊降臨は五旬祭の日に起こりました。「五旬祭」は旧約聖書では「七週の祭り」とも呼ばれていますが、この祭りが過越祭の翌日から数えて50日目に行われるために、五旬とか七週という名が付けられたのです。キリスト教ではこの日を聖霊降臨祭という名で呼びますが、それは日本語に限ったことで、ヨーロッパの国々では、旧約の祭りも新約の祭りもどちらも「ペンテコステ」と呼びます。これは、ギリシア語で50番目を意味する言葉をそのまま外来語として取り入れた呼び名です。

ところで、五旬祭(ペンテコステ)は、もともとは小麦の収穫を祝う祭りでしたので、旧約では「刈り入れの祭り」とも呼ばれました。私のストラを見てください。赤い地に実った麦の穂の模様がついています。しかし、この祭りは後に宗教的意味づけとして、エジプトから脱出したのちにシナイ山で神から律法をいただいたことを記念する祭りとして祝われるようになりました。

一方、ヨハネ福音書7章では、仮庵祭(かりいおさい)にエルサレムに上った際にイエスさまが大声で呼ばわった言葉を伝えています。仮庵祭は9~10月に祝われますが、元来はぶどう・イチジク・オリーブなどの果物を収穫した後の祭りで、「取り入れの祭り」と呼ばれていたものが、後に、宗教的にエジプトからの解放と沙漠の彷徨を記念する祭りとなり、その記念のために一週間、家の庭先や町はずれに仮の庵を建ててそこで暮らすので、仮庵祭と呼ばれるようになりました。ユダヤ教では最も華やかで楽しいお祭りです。

《祭りが最も盛大に祝われる終わりの日》に、大祭司はシロアムの池から金の器で2リットルほど水を汲み、ラッパが鳴る中、ぶどう酒と共に祭壇に捧げます。水は命のシンボルであるとともに、聖霊の象徴でした。イスラエルの人々は、終わりの日に、神がエルサレム神殿に降り立ち、全世界を支配される、そのときには、エルサレムが世界の中心となり、そこから命の水が四方を潤す川となって流れ出す、と信じていました。大祭司による祭壇への水注ぎの儀式は、そうした信仰を表すものだったのです。

ところが、まさにそのとき、イエスさまは立ち上がり、大声で叫んで言われました。《渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる》。「渇いている人」とは、命の水すなわち聖霊を求める人、永遠の命を求める人のことです。そういう人は誰でも《わたしのところに来て飲みなさい》とイエスさまは呼びかけます。つまり、イエスさまは、命の水の源は自分だ、と宣言します。これは、ユダヤ教の終わり、新しいキリスト教の始まりを告げる言葉にほかなりません。

私たちは、イエス・キリストの十字架の死と復活と昇天を信じるとともに、そのイエス・キリストが神の右の座からの私たちに聖霊を派遣してくださることをも、今を生きる力として信じ、また待望する者とされたのです。

さきほど交読した詩編104編では、すべてのものを造り、生かしてくださる神の働きが次のように歌われていました。《み顔を隠されれば彼らは恐れ、息吹きを取り上げられると彼らは息絶え、元の塵に帰る。あなたはご自分の息を送って彼らを創造し、地の表を新たにされる》。神の霊こそが人を生かす力であり、私たちは神からの力なしには生きていけないのです。この神について、私たちはニケア信条で「主であって、いのちを与える聖霊を私は信じます」と唱えるのです。私たちのうちに住まわれる神、それが聖霊なる神です。聖霊は、私たちのうちに住むだけではなく、私たちを拠点として、そこから出てゆき、私たちの活動をとおして、他の人にも働きかけます。

それでは、聖霊は何をするのでしょうか。聖霊は、人間の心の奥に触れられるのです。聖霊は、福音が聞かれることを通してキリストと私たちとの接触を打ち立てます。絶望のどん底にあった人が神へ信頼を取り戻し、立ち上がっていくとき、あるいは、人と人の間にある無理解や対立が乗り越えられて、相互の理解と愛が生まれるとき、それは神の働きによる、または神の憐れみによるとしか言いようがないことです。神の霊が人間の心に働きかけて信頼や愛の心が呼び覚まされるのです。

聖霊はこのように働かれます。私たちは聖霊を通してキリストのものとされたことを、神の子とされたことを信仰をとおして確信させます。しかし、聖霊の働きは、聖霊が私たちの心に入ることで初めて始まるのではありません。それはイスラエルに対する、また神の教会に対する、そしてこの世界に対する神の救いのみ業、すなわちイエス・キリストの言葉と業の全体の中に始まっています。そして、そこから、その教会におけるみことばと聖礼典を通して、聖霊は個人的に私たちの中にも入ってきます。教会はまさしく聖霊から神のことばを通して生まれたのです。そして、教会はある意味でキリスト者である私たちすべての者の母であって、そこで私たちは聖霊を通して神の子に造られ、また生み出されるのです。

聖霊が心の深みに触れた後には、私たちは神に仕えて生きることを始めます。誰もが自分にすでに与えられており、また与えられるであろうさまざまな聖霊の賜物に従って自分の持ち場で仕事にかかるのです。イエスさまがヨルダン川で洗礼を受け、神の子としての活動を始めようとするときに聖霊が降ったように、また、ペンテコステの出来事でも、最後までイエスについていけなかった弱い弟子たちが福音を告げ知らせる使命を果たそうとするときに聖霊が降ったように、私たちも神からの使命に生きるために、繰り返し聖霊の働きを祈り求めましょう。

聖霊について人間は頭で理解しようとしますが、とても難しいです。聖霊の働きは、そもそも人間の考えを超えた神の働きであって、理解しがたいのです。大切なのは、聖霊を理解しようとすることよりも、私たちが神の働き・神の助けを自分の中に感じ、他の人の中にもそれを見いだし、共に神の導きに従って歩んでいこうとすることです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

6月
6

私たちを生かす力

2010年5月30日     三位一体主日説教

ヨハネによる福音書16章12-15節

説教: 江本 真理牧師

+私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

神のなさることは私たちの理解を越えている。キリストの言葉・福音には私たちの理解力を越えた真理が隠されており、今はまだ理解できないことがある。しかしその真理は隠されたままにされるのではなく、真理の霊の導きによってことごとく悟らされるのだ、と主イエスは言われます。

「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて 真理をことごとく悟らせる」(12-13a)。

ここで「理解できない」と訳されている語は、「堪えられない」「耐える力がない」とも訳すことができます(これは元来「担う」「携える」という意味の動詞です)。しかしこれは、恐ろしくて聞くにたえないという意味ではなく、弟子たちの理解を越えた真理がなお隠されているという意味です。つまり、福音 の真理には、その時にならないと理解し尽くせない秘密が背後に隠されているという含みがあるのです。

ヨハネ福音書2章では、主イエスが神殿で商売をしていた人たちを「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と言われて追い出された出来事が記されていますが、そのときに人々からしるしを求められた主イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言われました。それを聞いたユダヤ人 たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と問い詰めます。その場に一緒にいた弟子たちもこのやりとりを不思 議に思ったことでしょう。実はここでイエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことであったのですが、「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、 イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」(2:22)と伝えられています。

また12章では、主イエスのエルサレム入城の場面が記されていますが、そのときに起こった事柄に関しても、「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出し た」(12:16)とあります。

これらの箇所には、常に主イエスの側にいた弟子たちでさえ、主イエスの復活・昇天の後になってはじめて本当に理解できるようになった真理のあることが示されています。

しかしこの16章においては、ただ時間的に復活以後になって初めてわかるというだけのことではなく、この真理を弟子たちの心に伝えるためには、聖霊の仲立ちがどうしても必要であることが強調されています。これは私たちにとってもとても大切なことが言われています。私たちは主イエスと同じ時代に生きているわけではありませんし、直接イエス御自身にお会いしたわけでもありません。主イエスが生きておられたときとは、時間的にも、空間的にも隔たっているわ けです。しかしそのような私たちであっても、「真理の霊」、神のもとから送られる聖霊の働きによって、福音の真理をことごとく知ることができるのだと、主 イエスはそのように言われ、約束してくださっているのです。

先週、私たちはペンテコステ・聖霊降臨日の礼拝を守りました。主イエスが天へと上げられた後、弟子たちの上にこの約束されていた神の霊が降り、それによって弟子たちは新しい力を得てイエス・キリストの福音を宣べ伝える福音宣教の歩みを始めました。それはまた教会の歩みの始まりでもあったわけです。このペンテコステの出来事は、弟子たちが聖霊を送るという主イエスの約束を信じて待つことから始まりました。まだよく理解していなかった、わかっていなかった。しかし、主イエスの言葉を信じ、その約束に希望を置いたのです。まずは、「信じること」。そして、すべては「信じること」から始まるのです。

私たちは普段の日常生活の中であまり意識していないかもしれませんけれども、誰であれ常に何かを信じているものだと思いますし、信じることができなければ日々の生活すらままならないのではと思います。例えば、毎日の食事、その食べ物が安全だと信じているから食べるわけです。私たちが飛行機に乗ると き、あんなに重たいものが空を飛ぶのかとも思うわけですが、しかしその重い機体を安全に飛ばすことのできる現代の科学技術を信じて飛行機に乗るのです。車に乗るのもそうでしょう。またタクシーに乗るのも、運転手を信じるから乗ることができるわけです。銀行にお金を預けることも・・・

そういう意味では、もしも「信じる」ということが全くできないならば、人は一瞬にして身動きが取れなくなってしまうでしょう。

ところが現代は不信の時代であります。確かに今の時代には不信をあおるような事件や事故、虚偽や隠蔽が溢れています。人間関係のモラルも変容し、信じても裏切られることばかり・・・そんな中でお互いに他人が信じられない。身近な人でさえも信じられない。政治やマスコミはもちろん、科学や宗教も、自分自身すらも信じられない。だから未来が信じられない。そして不信に疲れている。今の社会にはそんな雰囲気が漂っているように思えます。しかし、そんな時代だからこそ、逆に素朴に「信じる」という行為が必要とされているのではないでしょうか。人々は「信じる」ということを求めているのではないでしょうか。なぜならば、あらゆる問題が、最後は「信じる」ことでしか解決できないからです。

疑いは対立を生みます。お互いの関係をギクシャクさせ、関係そのものを絶ってしまいます。また疑いは疲労を生みます。そして疑いはさらなる疑いを生むのです。それに対し、信じることはそのまま力になる、エネルギーになるのです。信じれば信じるほど生きる力、前に進んでいく力が生まれるのです。私たち にとって未来は、一瞬先のことであっても、どのみち誰にも分かりません。どれだけ疑っても、疑いからは答えは出ませんし、前に進むことはできません。新しい道を切り開くことはできないのです。信じた者だけが、その一瞬先を切り開く。決して希望を捨てない。あきらめない。たとえ今が暗闇であっても、夜明けの来ない夜はないのだから、夜明けを信じて、太陽が昇り光に包まれるのを信じて待つ。・・・人間関係においても、相手を疑うことをやめたとき、新しい関係が 生まれていきます。だれでも疑われれば閉じこもり、他者から信じられることで開かれていくのだと思います。そうして信じるほどに、実際に喜びが増し、信じるほどに仲間が増えていく。「信じるものは救われる」と言いますが、実は「信じること」そのもの、信じることができるということが私たちにとって救いなのです。

信じることは、新しい道を切り開く「力」であり、救いであると言いました。疑うことではなく、信じることが大切なのです。確かに、そう言われて頭では分かっていても、実際私たちはなかなか単純に信じるということができません。疑いの心、不信の心がむくむくと湧きあがってくる。そこで苦しむのです。疑いの心は、自分が信じても裏切られてしまうのではないかという恐れから生まれます。また自分の知識や経験を越えたことを信じることには絶えず疑いの思いがつきまとうのです。

しかし私たちの信仰の対象はイエス・キリストです。私たちを決して裏切ることのない方を信じるのであります。私たちがその弱さゆえに、約束を信じとおすことができずに、キリストから離れてしまうことはあります。・・・しかし神はどこまでもそんな私たちのことを信じておられる。この信じることのできない私自身がもう一度信じ始めるのを待っておられる。信じて待つことのできないこのわたしをどこまでも信じ待っていてくださる。そのような私たちに対する神からの働きかけ、それが私たちを導いて真理をことごとく悟らせる真理の霊、聖霊の働きなのであります。私たちを導く神の霊の働きによって、私たちは福音の真理を知らされる。疑いと恐れという罪にとらわれてしまっている私たちを、そこから解放し、再び信じ始め、希望をもって歩みだすことができるようにと、ひとり十字架にかかってくださったイエス・キリストの恵みを知らされるのです。私たちが福音の真理、神の大いなる恵みに気づかされる、それがわかるということは聖霊の賜物であります。しかし、自分にはまだわからないと言って嘆く必要はないのです。私たちは霊の導きのうちにあります。聖霊に導かれているので す。その導きを信じるならば、その霊の働きの中に既におかれているのです。

疑いではなく信じること。聖霊の導きのうちにあることを信じて歩んでまいりましょう。

疑いではなく“信じること”。あなたに対する神の愛、キリストの恵みを信じて、将に来たらんとする将来へと一歩を踏み出していく者でありたいと願います。

「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる」詩編37:23

「主は助け求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを助け出される」詩編34:18

どうか望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。 アーメン


六本木教会の礼拝にいらっしゃいませんか。毎週日曜日の午前11時から行われています。教会は営団日比谷線六本木駅 から徒歩約10分のところにあ ります。メールまたは電話(03-3405-9972)でお問い合わせください。

5月
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教会とはだれですか・・・

2010年 5月 23日 聖霊降臨祭

説教:五十嵐 誠牧師

◆聖霊が降る

2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。2:5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、2:6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。

2;14ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。

2:37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。

2:38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安が あるように アーメン

教会は特別な暦を持っています。週報の表紙にあります。今日は

「聖霊降臨祭・日」です。ギリシャ語で「ペンテコステ」と言いますが、それは「50」を意味します。ユダヤ教では「五旬祭」と言い、三大祭りの一つです。麦の収穫を祝う祭りです。またモーセがシナイ山で律法を授けられた記念の祝祭でもありました。キリスト教会ではイエスの復活から50日目が「聖霊降臨日」になります。イエスは復活後0日間地上におりましたが、天に昇られた後10日後に起きた出来事を覚えて教会は守ります。詳しいことは使徒言行録2章を見てください。

人はみな誕生日があります。教会にもあります。教会は誕生以来、2000年の年月を経ています。教会の誕生日は今日、「聖霊降臨日」です。この日エルサレムに教会が出現しました。教会とは、何でしょうか。正しくは、教会とは誰ですかです。「教会」という言葉で、何を想像しますか。この六本木教会を描いているでしょう。教会というと、よく町で見かける、屋根に十字架を掲げている建物を・・六本木教会は一見教会らしく見えませんが、よく見ると教会です。建物をイメージします。しかし、それは正しくありません。教会が建物として存在するようになったのは、5世紀以後だからです。キリスト教がローマ帝国の国教にになってからです。イタリアやドイツなどいきますと、巨大なゴッシックの教会があります。日本でも、横浜の海岸教会やお茶の水のニコライ堂などが有名です。ローマのバチカンのペテロ大聖堂は素晴らしい。スペインのバルセロナのガウディの「サ

クラダ・ファミリア教会」も尖塔がしていてます。

それ5世紀以前の教会は・・紀元一世紀から迫害時代は・・一般の信者の家でした。「家の教会」でした。迫害時代はローマのカタコンベ・catacombe でした。カタコンベとは「地下墓場」です。今でも遺跡として残っています。信者たちは隠れて集まり、礼拝し、儀式を守り、信徒の交わりをしていました。そこが「教会」でした。

今述べたことから分かるように、教会とは建物ではないと分かります。教会とは何ですかではなく、教会とは誰ですかっですが。誰かですが、それは・・その答えは「人々」です。新約聖書には多くの手紙があります。ローマ、コリント、エフェソ、ガラテヤ、コロサイなどですが、それはその都市の教会の信徒宛てに書かれたものです。使徒の働きを書いた「使徒言行録」がありますが、イエスの弟子たちは福音を携えて各地に・・世界に出ていきました。彼らは教会という建物を建てた訳ではありません。彼らはその地に「信者の集まり、群・グループ」を造ったのです。ですから、教会というのは建て獲物ではなく、人々・信徒の集まりを言います。ここ六本木教会というのは、ここに集まっている信者たち・・礼拝をし、礼典(洗礼・聖餐)を行い、信徒の交わりをしている人々を意味します。建物ではありません、建物は場所の意味です。建物があったら、そこに信徒の群・教会が あるということです。

難しくなりますが、聖書で「教会」と訳されている言葉はギリシャ語で「エクレジア・

ejkklhsiva」ですが、それは日本語では「教会」と理解していますが、他に、「集会・集まり、信者の群」などと訳せます。ですから、「教会」を好まない人は別の表現をします。

パウロという弟子の言葉を借りれば、教会とは「キリストの十字架によって救い出され、神に召し集められた集団・エクレジアであるのです。日本語の教会はいい表現ではないと言います。なにか「Teaching Society」を連想するからです。教会は「学ぶ所」となるからです。また、英語でChuchというのは「主に属する者」と言う意味のギリシャ語かあ来ています。

先ほど、今日は教会の誕生日と言いましたが、紀元34年頃、パレスチナのエルサレムに誕生しました。詳しくは使徒言行録2章を読んで下さい。イエスが天に帰られた後、10日後に、約束されていた「聖霊」が、この日、集まっていた一人一人の弟子の頭の上にとどまりました。異常な出来事です。さらに驚くことが起きました。聖霊に満たされた弟子たちが、聖霊が語らせるままに外国の言葉を話しました。イスラエル生まれの弟子たちが、祭礼に来ていた巡礼者に、その国の言葉で話したからです。十何カ国語です。巡礼者は驚き言っています。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」。

その後、弟子のペトロは説教をして、この出来事は預言の実現であること、そしてキリストの十字架と復活の福音を述べました。それを聞いた人々はこう言いました。「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか、言った」。「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。と。

そして、この「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」。

この日、ここに、最初の教会・三千人の信者からなる信徒の群・集まりが誕生したのです。エルサレムに、ローマのバチカンのような大聖堂が出来たのではありません。信徒の教会生活がよく出ています。

弟子たちは救いの福音をもって、各地に伝道して、信徒の集まり、集会・教会を造りました。その働きを書いた書物が「使徒言行録」です。読みますとその苦労が分かります。その集まり・教会は弟子の努力や手柄で造られたものと考えられますが、そうではありません。この書物を別名「聖霊行伝」と言います。聖霊の働きで、福音を聞いた人々は、イエスを救い主と信じ、その集まり・教会を造りました。

それは今の私たちも同じです。聖霊は私たちに働く力です。言ってみれば、私たちの生活の・・それはクリスチャン生活の全てに大事な力なのです。私たちはよく「お陰さまで・・」と言います。「如何ですか」に対してこう答えます。それで納得しています。私も言いますが、本当は「はい、聖霊のおかげで・・」が正しいのです。率直に「聖霊のお陰さまで・・」と言いたい。

クリスチャンは「聖霊」を神、キリスト共に重んじています。聖霊は三位一体の神として、信じらています。これについては来週、江本牧師から聞いて下さい。

私たちは「聖霊のお陰で、イエス・キリストを知り、信じ、洗礼を受け、今に至るまで生かされているのが、クリスチャン生活です。それはクリスチャンが「聖霊」を与えられ、、今持っているからです。いつ何処で聖霊を受けたか、与えられたかですが、そう洗礼を受けたときです。それを忘れてはなりません。忘れている方が多いと言われます。

聖霊を受けているですが、感情的な興奮をするとか、外国語を語るとかではありません、私は友人の教会に説教に行きますが、その教会は聖霊を強調していまして、私が説教をしていますと、信者さんが「アーメン」とか「ハレルヤ」を連発します。話しにくいです。また、お祈りをすると「アーメン」とか「アー主よ」とか「アーメン、主よ」とか言います。そういわないと聖霊がないような気分になります。ルーテル教会は正反対で静かですね。感情に左右されないで、冷静です。私が説教しても、お祈りしても、途中に「アーメン」とか「ハレルヤ」も入りません。」だから、ルーテル教会の信者さんには聖霊がないとは言えません。聖霊は深く、静かに、力強く働くし、働いているのです。しして、感情だけでなく、かもの思いを理性や知性で理解するように働くき、導くのです。静かですが「聖霊によって与えられる義と平和と喜び、力」(ローマ14:17)を持ち、経験しています。

聖霊は今朝の福音書では昇天にあたって、「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」といわれました。

聖霊はここでは「弁護者」になっています。この弁護者というのはギリシャ語では「パラクレートス・paravklhto”」で、意味は「側へ助けのために呼び寄せられて来ている者の意味から、力強い味方、肩を持ってくれる者,同情をもって弁明してくれる人,弁護人」です。紀元4世紀の教父・教会の指導者は「慰め主」と訳しています。聖霊は共に居て、教え、慰める神として理解しています。そう理解したいと思います。私たちクリスチャンは「聖霊は真理を教え、慰めと励ましを与える方と」理解したい。そうすると、「心配するな、悲しむな」というイエスの言葉を信じることが出来るのです。

聖霊は多くのことをわたしたち・クリスチャンのためにしてくれます。私たちは「わたしたちに与えられた聖霊によって,神の愛がわたしたちの心に注がれている」ことを確信でき、どんな場合にも希望を持つことが出来ます。(ローマ5:1-5)。ですから、私たちには「袋小路」ありません。一人で悩むことはありません。聖霊が共にいて、祈って下さるからです。(ローマ8:26)。そのことを信じて、確信して、信仰生活を力強く歩いていきたい。

今日の説教は少し難しいかもです。先だって、」中学生から「先生のお話は難しい」と言われました。少しでも実感できたら幸いです。聖霊について改めて考えることが出来ればと思います。聖霊は立派な概念でも考えでもありません。聖霊は信仰生活を、クリスチャン生活を活性化する大きなとからです。それを経験したい。

アーメン

5月
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