共に喜ぶ

2010年9月12日 聖霊降臨後第16主日

ルカによる福音書15章1〜10節

説教:樫木 芳昭 牧師

(要約)

◇今日の福音書は徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来たと始まっている。

X-st.は、彼ら徴税人や罪人をたびたび訪ねているので、この徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来たことは特別のことでない。

◇が、ファイリサイ派の人々や律法学者たちには、このX-st.の姿勢が理解できなかった。

◇神の掟に従って清く正しく生きようとするファリサイ派の人々や律法学者たちにとって、征服者Rm.のために税金を手数料込みで取り立てる徴税人は、忌み嫌うべき穢れた人間であった。

◇罪人とは、律法学者が定めた解釈に従って生活しない人びとで、実態は今の世なら不道徳な人、恥ずべき職業についている人びと。

◇こうした人びとは、ファリサイ派の人々や律法学者たちから蔑まれ、白い目で見られていた。

◇また、律法学者やファリサイ派の影響を受けた人びとも、彼らを軽蔑し、白い目で見ていた。

◇ここで問題は、神が聖なるお方であると考え信じることは信仰の基でだが、その神の聖なることを、人間が多分こうだろうと想像し、それを尺度にすること。

ファリサイ派や律法学者たちは、神は聖なるお方であるから、当然人間も聖なる者であることを厳しく求めると考えた。

律法学者とは、この様な考えに基づいて、人間が聖なる者となるための神が形と道を定めたのが、所謂、律法・掟だとした。

◇このような道は人間の努力目標としてはよいが、それが基準となると、彼らの定めた道を歩めない者は皆、穢れた脱落者、神から見捨てられたものとなる。

◇そして、同時に求められた能力のない者は、所謂、脱落者、落ち零(こぼ)と切り捨てられる。

◇換言すると、弱い人間、恵まれない人間は切り捨てご免、絶望するより他に道がないことになる。

◇今日の日課に登場するファイリサイ派の人々や律法学者たちは、善く言えば、何があっても揺らぐことのない信念の人、悪く言えば天井天下唯我独尊、手に負えない頑固・頑迷な人びと

ファリサイ派の人々や律法学者たちにとって、徴税人や罪人は、言葉を交わすことはおろか、傍に近付くのも忌み嫌い、避けるべき人びと。

X-st.は、その徴税人罪人が話を聞こうとして近寄って来るままにしているどころか、罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている

◇これはファイリサイ派の人々や律法学者たちには言語道断。

◇それで、彼らは口々に不平を言いだした

◇この不平を言うという語の原語、新共同訳聖書で、他に囁く、呟くと訳されている、自分の期待に反していることを口にするを表す語。

◇そして今日の日課の不平を言うは、その強調形、つまりその不平の激しさを示している。

NT.不平を言う強調形は、今日の日課と、これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」Lk. 19;07.X-st.徴税人ザアカイの家に入って行った場面の二箇所だけ。

◇つまり、不平を言う強調形は、ファイリサイ派の人々や律法学者たちとその考えに同調する人びとが、罪人を迎え入れるX-st.を理解できなかったことを示している。

◇今日の二つのX-st.たとえは、そのファイリサイ派の人々や律法学者たちの考え方の誤りを指摘する話。

◇この二つのたとえ三つの共通点がある。

◇第一、この二つのたとえが共に神の憐れみを語っている。

聖なる神の憐れみは、欠けを許すことが出来ない。

◇だから徹底的に失われた羊、失われた銀貨を捜したようにその欠け、人間のマイナスである欠点を覆う。

神は人間の欠点や汚れを絶対に赦すことが出来ないが故に、その欠点、汚れを覆われる。

◇つまり聖なる神であればこそ、神は厳しく人の欠点や穢れを糾弾し、そしてその欠点や穢れ憐れみによって人を覆われる。

◇そう、欠点や穢れの故にをご自分の前から排除して切り捨てるのではなく、賛美歌No.303.このまま、我を愛し召し給うと歌うように、あるが侭の人を受け容れる。

◇第二、は、迷い出た1のために99を残して捜しまわる羊飼いのように、9も残っているのに、失われた1を見付けるまで家中を捜すのように、欠点や汚れがあるからと弾き出されるを捜し求める。

◇残りが99もあろうと、残りが9あろうと、失われたを見つけるまで捜す、此処に、神の不思議な計算、福音の計算がある。

◇私たちの計算は合計を出して+か−を重く見、+を良しとする利益の計算。

◇だが、神の計算は常に−を重視する計算。

100匹の羊の内のが失われる、これはの−。

10枚の銀貨の内のを見失う、これは10の−。

◇も実感として、千円入れた財布から10円失われて、私たちは痛みを感じるか。

10円硬貨10入れたつもりの小銭入れ、開けたら9、そのとき、私たちは大騒ぎをするか。

◇私たちの計算ではの損失は殆ど問題ではない。

◇また10の損失も、それほどの打撃でない。

◇しかし、神の計算では%ではれ、10%であれ、失われたこと、−が問題。

神の計算は常に残された者の側でなく、失われた者の側に立っている。

◇第三は、今日の日課の中で、見つけたから、喜んでその羊を担いで、見失った羊を見つけたので、一緒に喜んで下さい、大きな喜びが天にある、無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください、神の天使たちの間に喜びがある喜びという語が5回も用いられている。

◇この喜び神の喜びを指している。

◇この神の姿は、世界で一番信仰深いと自認するファリサイ派や律法学者たちの考えた正義の神の姿からは思いもつかぬもの。

X-st.はこの例えで、その神の喜び自分の喜びとして受け容れるか、あるいは、神が喜ぼうとも、正義は正義、罪人は罪人断罪するかと問われている。

は、人の義ではなく、ご自信の義で人を裁き、判決を下す。

は、迷い出たことを迷い出た、失われたことを失われと、人の罪を罪と認めた上で赦される

◇換言すると、は人の過去をすべてご存じで、人には情状酌量の余地はないとハッキリと認めた上で、その過去、その罪を問わないという判決、赦しを与えられる。

◇神が失われた者を捜し出すのは、その人を断罪するためではなく、その人を赦すため。

◇このの私たちに対する思いを具体的に表す方が人となられたX-st.

◇故に、今日の例えに記されている喜び神の喜びである。

X-st.のみが、失われた者を見つけ出して喜ばれる方。

◇これは他人事ではない!

◇そのX-st.が捜し出してくださったので、あなたは今日ここにいる。

◇あなたを探し出し、そして一番喜んでおられるのはX-st.

X-st.はあなただけを探し出し、そして一番喜んでいるのではない。

X-st.は、仮にあなたがファリサイ派や律法学者たちの眼鏡をかけたら、穢れた者、罪人と映る人を捜し出し、そして一番喜んでおられる。

◇そう、あなたも、あなたの隣人も、神の喜び、X-st.の喜びなのです。

◇共に神に喜ばれる者として互いに受け容れ、共に喜び、共にこの世をみ許に至る日まで歩もう!

9月
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神殿回廊にて・・・

2010年4月25日 復活節第3主日

ヨハネによる福音書10章22-30節

説教: 五十嵐 誠 師

◆ユダヤ人、イエスを拒絶する
10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。10:23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」10:25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。10:26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。10:30 わたしと父とは一つである。」

  冒頭に「神殿奉献記念祭」がありますが、それはエルサレムでは、毎年12月、冬の季節にありました。。これは紀元前168年にシリヤの王によって汚された神殿を紀元前165年にユダ・マッカバイオスが問い返し、再びきよめて奉献したことを記念する行事です。(Ⅰマカベア4:59),新約聖書では「宮きよめの祭り」(ヨハ10:22‐23)がこれに当ります

 その神殿の回廊でイエスはユダヤ人と問答をしました。ソロモンの回廊というもので、500メーターくらいの長い廊でした。回廊を歩いていたイエスを捕まえてユダヤ人達は、イエスの正体を問いただしています。「あなたは私たちが待望しているメシアであるかそうでないのか」と。私たちに余り気をもませないでほしいと迫りました。イエスのことは人々の口にのぼっていました。イエスはメシアだという意見とそうではないというmかたが余した。

 イエスは簡潔明瞭に答えています。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」と。イエスは今日の福音書少し前で「私はよい羊飼いである」という話をしていますが、それ
に対しても「なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか」と反対しています。ですから、彼らが気をもんでいるのは、イエスがご自分について明らかに語らなかったからでなくて、不信仰のために、明らかにされていることを見分けられないからだったのです。で、イエスはご自分が目の前で行っている業・行いを見なさいと言います。そうすれば分かると。言葉が信じられないなら、行為・業を見よです。そうすれば、イエスが神から来た方と知るはずだと。しかし、それもユダヤ人は信じませんでした。イエスは陰に陽に自分が何者かを語ったいますが、ユダヤ人やファリサイ派は信じなかった

 ユダヤ人全てがイエスを拒否したわけではありません。メシアを待望してイエスに出会って喜ん人もいました。こんな人がいました。シメオンですが、幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。(ルカ2:25以下)。
イエスに会っから死んでもいいとさえ言っているのです。驚くべき言葉です。普通は立派な働きをし、財産を築き、子孫を残して、天寿を全うして死を迎えたいが、願いだろうと思います。とにかく死ぬ前にイエスに出会うことが願いでした。凄いと思う。

ユダヤ人がパレスチナに国家を作らない前、一つの願いがありました。死ぬ前にエルサレムに行き、そこで死にたいでした。老人は死ぬためにエルサレムに来たのでした。1948年パレスチナにイスラエル国家が出来たときに、世界各国からユダヤ人がエルサレム目指して帰ってきました。飛行機で空輸されたので、「空飛ぶじゅうたん作戦」と言われました。ある日、年老いた病気の老人が少年に負ぶわれて飛行機から降りて来ました。老人は背中から降ろされました。老人は地にひざまずき、大地に接吻して、死にました。エルサレムで死にたいが願い・信仰でした。それが実現しています。
論語に「朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」と言うのがありますが、信仰とはそういうものとも思います。人間の生き方やあり方を知ることは、それほど重大なのだと言うことです。

 今日私たちは聖書の中でイエスに出会います。どこでイエスの言葉を行いを見るかと言えば聖書です。聖書はイエスに出会い、共に歩き、イエスの話に耳を傾け、イエスの行いの全てを目で見た弟子たちの言葉です。それは証言です。信じるに値する言葉です。作り話・フィクションではなく、真実の・ノンフィクションです。聖書というか、弟子たちが私たちに語っているのは、生けるイエス・キリストに出会ました、そのイエスはあなたに力を与えますよ、そのイエスに信頼して生きていきなさい、これが、聖書の言うところです。ですから 、余り知らなくても、「イエスさま、私は余り知りませんが、でも、あなたを信じて生きて行きます」という一言が大事なのです。
からないからです。膨大なのです。
生けるイエスに出会い、力をうけて、新しい出発が始まります。そこからなにが起こるかと言えば、それは不可能が可能になるということです。神、イエス・キリストが生きているから、不可能と思われることが可能になるという生き方が生まれてきます。信じるものには、全てのことが出来るという信仰が起こって来ます。だから、信仰者は強いのです。そういう生き方を聖書は約束しています。

 イエスは羊でさえ羊飼いの声を知っていて、その声を聞き分け,ついていくのに、あなた方、ユダヤ人は真の羊飼いであるイエスを知らず、従って来ないと非難しています。が一方、イエスはイエスとイエスを信じる者との信頼の堅いきずなで結ばれていることを強調しています。イエスは「わたしと父とは一つである」(30)と言っています。是はユダヤ人に取っては神を汚す言葉でした。イエスは神だということだかです。ユダヤ人には神は唯一だからです。だから、ユダヤ人は石を投げようとしたのです。(10:31節)。

 しかし、イエスが神と等しい方だからこそ、私たちは信頼出来るのです。神の救いの目的のためにイエスは送られて来たイエスです。従って、だれもイエスの働きを、力を妨げられないのです。イエスと結ばれている者は神の大きな笠の下に、腕の中にあるのです。私の好きな聖句に「My times in his hand」というのがります。(詩編32:15・口語訳)。私の全ては神のみ手に中に」です。
イエスは人生は悲しいとか空しいものだとかあきらめを説きませんでした。イエスはいつでも希望を、歓喜を、光明を説きました。だから、イエスはよく、天国を宴会に譬えました。一杯ご馳走のある、豊かな振る舞いです。(ルカ14:15以下、15:22以下)。
現在もいろんな声が聞こえて来ます。大きな声も、小さな声もあります。耳障りのいい声も、欲望をそそるような声もあります。しかし、私たちは聖書からイエスの声を聞く者でありたいと思います。イエスの声に従った人はクリスチャンです。クリスチャンとはなにかと言えば、ただ座って天を見上げている人ではありません。ある先生が言われたように、クリスチャンとはキリストと共に冒険・アドベンチャーの旅に歩む人に与えられた名称なのです。ですから、クリスチャンとは、古い生活から抜け出して、身支度をして旅を歩む者となることです。私たちがクリスチャンになるとは、神の国に向かって歩く冒険の旅に加わるように選ばれることを意味しています。この冒険の旅に加わることによって、私たちは恐れから解放されます」ということです。この旅に加わり、喜びと確信の日々を過ごしたいと思います。


六本木教会の礼拝にいらっしゃいませんか。 毎週日曜日の午前11時から行われています。教会は営団日比谷線六本木駅から徒歩約10分のところにあります。

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